2022年1月23日日曜日

年末年始
夫の実家、私の実家と続けて帰って過ごした。

妊娠中にコロナが流行って、出産2ヶ月前に帰省したのを最後にずっと帰っていなかった。
産後初めて、娘を連れてそれぞれの実家へ。

家族や友人と過ごす時間が本当に温かくて
心から安心していられて
あぁ、この2年、本当に頑張ったし、ずっと心細く寂しかったなと振り返った。

(もちろん、娘がわたしと夫の間にやってきてくれたことは本当にありがたくて
同時にこの2年は知らなかったよろこびを、たくさんもたらしてくれた)

夫も一生懸命で、私も一生懸命で
自分がつぶれてしまったら、このちいさなひとを、どうしよう

と、いつも肩に力が入っていて。

実家での時間は、そんな自分を包んでもらっているような安心があり

(もう、こんなに、頑張らなくていいな)

と思った。
こんな安心の中で、笑って過ごしたいし
娘にも、安心して笑っている人たちの中で育ってほしいと思った。

そして実家から戻ってきて、夫と折りに触れて
これからどうしていきたいか、話してる。

と言っても、なかなかゆっくり話せる時間もないのだけれど
(夜は寝かしつけと同時に寝落ちしてしまう)
それでも、時間を見つけて、話せるようになった。


「どうしていきたい」が、見えるようにもなってきたんだと思う。


そんな中で、自然といろんなことが起こり
アルバイトはひとまず3月まで。
(辞めると切り出すタイミングが、向こうからやってきた)

そのあとは、他の仕事もするかもしれないけれど
私は、自分で仕事を始めることにした。

それは、「自分のやりたいことをやる!」みたいな気持ちではなくて
これからどんな風に生きていきたいか

夫がいて、娘が育っていく中で
どんな環境だったら自分も機嫌よく安心していて
家族で楽しくいられるだろうか、
人のあたたかさに触れながら暮らしていけるだろうか、
ということを想像したときにやってきた、今までとは違う場所から生まれてきた新芽。


すーっといろんなことが起きてきて
わたしは、余分な力が、どんどん抜けてきている気がする。


そしてこの週末は、みんなで近くのホテルに泊まる予定でいたけれど
娘の通う保育園で、感染症にかかってしまった子がいて急遽延期。

私も夫も仕事を休み、娘はPCR検査を受けて結果を待っている。


今までこんな身近になかったから
「本当に流行ってるんかな〜」とふと思うくらいだったけれど…。

でも、かかってしまった子も今は体調が快復しているみたいだし
私たち家族も元気。

そして、私は自分がかかること、家族がかかること、身近な人が感染することを
ずっと避けて、どこかいつも緊張しながら暮らしてきたし

身近なところで感染が起こったら
少なからず差別心が生まれてしまうのでは、という不安もあった。
(感染した人をこわがったり、責めてしまったり)

でも保育園から連絡をもらってから自分にやってきたのは

かかってしまった子の回復を祈る気持ちだったり
ご家族はお子さんへの心配に加えて周りに申し訳なくなる思いがあるだろうな…と思い
そんな風に思う必要は全然ないな、という思いだったり

みんながこの2年気をつけてきたことをあらためて実感する気持ち
(だからこそ身近に起こらなかった)

こんな大変な環境で、保育園の先生方が毎日気を配り、感染に気をつけながら
それでも子どもたちには負担がいくのを極力さけ、日々が楽しいものであるようにと
ご尽力くださっていたことにあらためて気づいて、感謝する気持ちだった。


みんなが、意識的に、無意識に
お互いを守りあってきたんだ。真面目に、マスクして。手を洗い。集まりを避け。
自分たちが何を避けているのか、その本質も、わからないままに。



感染症の実態はそれでも今の私にはわからないし
情報もたくさんあり、意見もたくさんあり

研究者の意見から、お医者さんの意見から、陰謀論と言われるものから、
どれが本当か分からなくて
政府の対応もベストには思えないけれど、ベストが何か私には分からず、
でも絶対に背景にものすごく頑張っている人たちがずっといて、

そんな状況で
もしかして私がずっと怖かったのは
いざ感染が近くなったときに、自分が他者や自分を攻撃したりするのでは
という、自分の感じたくないものに触れることだったのかもしれない、とも思えた。

それが実際には起こらなくて、私は気が抜けた。
むしろ、周りの人たちへの敬意だったり、感謝がやってきたのだった。


なんとなく、新しいフィールドに今、立っている気がする。

かかるか、かからないかとか
あれか、これか

みたいなところと、全く違うところ。

ここに地面があったんだ、というような気持ち。


目の前の新大陸

うやうやと ゆっくり たしかめながら 足を運んでみる。


これは誰かが与えてくれた「正解」ではなくて

わたしの前に今やってきて
わたしが今、感じて触れているもの。