2019年12月30日月曜日


前の日記で
お腹の赤ちゃんにエネルギーが渡り
自分が溶けていく感覚があるが、全く惜しくない
ということを書いた。
 
その後、発熱し
薬を飲めないので3日ほど寝込んで過ごしているうちに
「あ、そもそも私が元気でないと、この人出てこられへん」
と、ハッとしました。
 
それでも、あのゆずり葉のような感覚は
きっと自分が生まれてくる前に、または父や母が生まれてくる前に
その前にもきっと続く母という母がおぼえた感覚なのではないかということだけ
栞のように、置いておきたい。
 
そういえば友人が(友人は男性)、奥さんが娘さんを出産した時に
「あ、自分は死ぬ」と思った、と言っていたけど
その感覚も近いのだろうか。
もちろん、生きることに向かっていたいけれど
命を繋ぐ数珠玉、方舟として、切ないかな順番があり
だからこそ今の生が尊い。

一緒にいられる他愛もない瞬間がひかり。
 
 
 
熱が眠っている間、自分の体は、ずれてしまったダルマ落としの人形のように
ぐらぐらとした感覚があったけれど
お腹だけは元気で、グルングルンとまわっていて、そこだけはピカピカ生き生きとしているので、まったく奇妙な体感があった。



年越し前に、体の大浄化だ〜と思いながらひたすら眠っていると
熱が下がってきても、右の首と頭がいたい。

ズキズキといたんで眠れないでいるときにふと
ヒーリングって自分でもできるのではないかな、と思いたち
手を当ててみた。

すると、自分が20代の頃から最近の職場で関わった人まで
理不尽に感じながら、男性のわがままを受け入れてきた経験が蘇ってきて
そのひとりひとりに、心から思っていることを伝えていった。
「あなたの寂しさを私は背負えません。お返しします」というように。

そのうちに、カップの映像が出てきて
「カップはいつも満ちている」という言葉が湧いてきた。

今までの私は、ずっと自分がどこか足りないと思っていて
その足りなさを埋めるために
身近な男性のわがままや甘えを受け入れてきたということが腑に落ちた。

そこで自分自身に
「私はカップを自分自身で満たすことができる。
 また、カップはいつも満ちています」
と宣言をして、手当を終えると
嘘みたいに痛みが和らいでいた。

これはだいじ、と思い
布団から起き上がって
テーブルの上にあった紙の端に鉛筆で
「カップはいつもみちている」
と書き込んだ後は
スーッと深く眠れた。

眠る前に、隣で寝息を立てている夫を感じ
この人は、私のカップが満ちていることを
知っている人だな、と思った。


時が満ちて
ページがめくれ
ひとつ、明けたら
あたらしいひとつ



 

2019年12月26日木曜日


最近、鏡を見ると白髪を見つけることが増えた。
今までほとんどなかったのでめずらしい。
やっぱりお腹に栄養がいっているのかな、と思う。

からだが変化していくこと
はじめはみるみる変わっていくことに
未知の自然に触れるようなこわさがあったけれど
今は、心が受けとめられるように準備がととのってきた。
 
時々、心身をととのえるために
以前教えてもらった呼吸法で、呼吸を意識する時間をとっている。
その時にも、足もとから入ってきた呼吸(気)が、お腹から背骨を伝わって
胸の真ん中に迎えられ、頭のてっぺんから抜けていくはずなのに
背骨にまわらず、おへその方に向かって行ってしまう。
お腹にある命に、エネルギーが率先してめぐっていく。
 
これは生命の流れ、摂理。
たぶん。
 
体は新しい箱舟を作るために、動いている。
お腹から出てきたら、またその命が育つように
きっとがむしゃらに私自身にエネルギーが必要な時期がくると思うけれど
 
今、自分の体がまるでゆずり葉のように
新しい葉に向けてエネルギーを流していくのを
不思議な感覚で見ている。
 
自分が、雪みたいに溶けていく感覚。
お腹の命が光り、輝くように。
 
自分が剥がれていくのに
寂しさや惜しさのようなものが、まったくない。

自分は溶けながら
お日様が雪の表面をきらきら溶かしていくのを
きれいだなぁ…と眺めてる。
 

 

2019年12月24日火曜日

ちいさな心をなぐさめる/ことばを知らなかった時の記憶

 
 
夫とのあいだで、大事にしているぬいぐるみは
昨年、100円ショップで見つけて
妙なかわいらしさに連れて帰りたくなったクマのぬいぐるみの形をした
ティッシュカバー

名前をつけたら愛着が生まれ
どちらかがクマに話しかけると
どちらかがクマになった調子で応える、ということが
自然発生した。
 
なんとなく、私たちの幼い心を
肩代わりしてくれているような気もして
クマはだんだんとワガママで天真爛漫な性格になっていった。
唐突に怒ったり、拗ねたり、高慢な態度をとったりする。
かと思えば、寂しがったり、甘えてきたり。
 
ちょうど去年の冬にやってきたから
ふと思いつきで、1歳の誕生日ケーキを焼いてみた。
 
それで昨晩は、彼(クマ)のお誕生会だったわけだ。


オーブンがないのでトースターで焼いたガトーショコラは
心配をよそに美味しく焼けて
チョコチップクッキーにチョコペンでHAPPY BIRTHDAYと書いて
ケーキにのせた。

なんだか彼も喜んでいるように見えて、楽しい食卓になった。



子どもの頃、こわい夢を見るのがいやで
私は毎晩、枕のまわりにぐるりとぬいぐるみを置いて
彼らに守ってもらいながら眠った。

いつも横で眠ってくれた、いちばん好きだったのが
家族旅行で出かけた清里で買った牛のぬいぐるみで
とても好きだったのに、いつ手放してしまったのか覚えがない。

最近、ふとそのぬいぐるみのことを思い出す。

どうして手放してしまったのだったか。
手放してしまった時ことも覚えていないくらい、
私の関心がそのぬいぐるみから離れてしまっていたのだろう。

そういえば、眠ることは怖くなくなったし
「明日起きたら全部がないかも」とか「眠ったらもう目を覚まさないかも」とか
「次に目が覚めたら全く違う世界にいるのかもしれない」
そんなことを思って切なくなることもなくなった。


今、充分な大人になって
夫との間でクマのぬいぐるみを大切にしながら
私は毎日、小さく慰められている気がする。

家を出るときに、暖房を切った部屋で寒そうに見えるクマを
日当たりのいい窓辺に置いたり
ブランケットにくるんだりする。

夫もまた、そうしていて
ふと家に帰ってくるとブランケットにくるまれたクマを発見したりする。

わたしたちは どこへも向かっていない

ちいさく あたためて
ちいさく なぐさめて

たたんで ひらいて

日暮れて また朝がきて

火をつけたり 消したりしている

 

2019年12月20日金曜日


 
 
なにもないときは さがしてもなにもない
ときがみちて
うきあがってくるのを
まつじかん
 
みどりのくさはらにひざをかかえてすわってる
かぜをあびて ひをあびて
みるともなく うちを そとを ながめていると
ふいにおとずれる
こころのみなもをゆらすかぜ
 
それがあいず
 
ときがみちたときに
きのえだから はがおちるようにして
あしがおのずからたちあがる
あしがおのずから あゆみだす
 
それはただ ときがみちたから
 
ひつようなことは
すでにおこっている
 
さわぎたてるこころを しずかなめでてらし
あたらしいこえのあがってくるところのつちを
ふかふかにしておくこと

2019年12月15日日曜日

イエス、扉は開く。


近所の路地を歩いていると、ふとあまい匂い
世界でいちばん好きな匂い
枇杷の花のにおい
 
今年も枇杷の花が、咲く季節がやってきた
 
 
 
2日ほど頭痛のために眠って過ごして
終わりの頃に夢を見た。

文化祭をしている学校の校舎のなかを、私は歩いている。
とても綺麗な、レースの服の置かれた部屋がある。
レースは、淡いピンクとブルーに染められている。
「これを着て、朗読するんだ」
と、なぜかふと思い浮かぶ。

その部屋を通り抜けて歩いていると、真鍮のアクセサリーが展示されていた。
繊細に、扉や船がかたどられている。
「とても好きだ」と思って見ていると
「もうじきワークショップがありますよ」と声をかけられる。
真鍮のアクセサリーを私も作れるらしい。
わくわくとしながら申し込んだところで目が覚めた。
 
起きてから、夢の中で見たアクセサリーをスケッチする。
とても素敵だった。
いつか作れる機会があったら。
 
 
 
2日間、たっぷり眠って快復したら
心身が洗われたようにやわらかく、すっきりとしていた。
 
 
里帰り出産をするか迷っていたけれど、
先日、出産を京都ですることに決めた。
 
いろんなことを分かち合える友人の今はいないこの土地で
出産とその後の育児を迎えることに、不安はあるけれど
私はもう少し、この場所のことをよく知って、好きになろう。
そんな風に心が動き始めた。
 
「Yes」があいことば。
 
ゆかりの深い土地よりも
今、新しい土地にいることを決めたなら
ここにいることを受け入れること。
ここにいることに、開くこと。

 
今に、イエスということ。
 
 
 

2019年12月8日日曜日

じぶんのてをうごかしてできること、を、かさねていくこと




夫と御所へ出かけて
木の枝と松ぼっくりを拾ってきた。
 
ささやかなクリスマスツリーを作ろうと思いついて。
 
 
綺麗な松ぼっくりを選んだり、飾るのに良さそうな枝を探したり
私の思いつきなのに
付き合ってくれた夫が楽しそうにしている様子を見て
嬉しくなった。
 
 
家に持ち帰った枝と松ぼっくりに
熱湯をかけて、ベランダの室外機の上に置き、充分に乾かした。
 
それから、松ぼっくりには赤い糸をつけて
木の枝先に吊るした。

キラキラと光る紙をいろんな形に切って
糸をつけたオーナメントも一緒に飾る。
  
 
手を動かすのは楽しい。
自然にあるものを分けてもらって、
身のまわりにいかすのは、楽しい。
 
必要なものがあり
そのために手を動かすことで
静かに力が取り戻されていく。
 

 
 
冬になって食卓の椅子に腰掛けるとき
ひやっと冷たくなったので
くたくたになったフェイスタオルを雑巾のようにチクチクと縫って
実家から持ち帰ってきた布を使って、そのカバーを作り
座面に置いた。
 
クッションほど分厚いものはいらない。
ただ、座った時にお尻が冷たくならないように。
 
自分の手を使えば
自分の暮らしにちょうどよく
その場にちょうど、おさまるものが出来上がる。
 
汎用性が、なくてもいい。
誰にも、どこにも、そういうものではなくて
頼りないくらいなのに
その場所に置くと、過不足なく、しっくりと丁度いいもの。
 
 
そんな個人的なものを
積み重ねていきたくなる。
 
 
 
 
 
 
お腹の中に、もうひとりやってきて
乗組員ふたりの体で数ヶ月。
 
今まで「やりたいこと」と思っていたことへの関心が
とても小さくなっている。

目の前に広がっていたものが急になくなってしまって
途方に暮れる思いがあった。
 
 
とても確かに思えていたものが
潮が引くように遠ざかってしまった。
 
 
あまゆきで会ったゆきさんが伝えてくれた
「子どもが産まれて、私は世界を広げてもらいました」
という言葉が
心細いなか、水晶みたいに光っていて
「今は見えない。変化の中」と、自分に話しかけながら
その光をきゅっと握っている。
 


 
 






 

2019年12月4日水曜日

12月


11月の半ばに、初夏から終末ケアに入っていた祖母が亡くなった。

祖母が亡くなる日の朝、夢の中に祖父が出てきた。
実家の、祖父母が暮らしていた部屋に祖父がひとりでいる。
私は
「おばあちゃんが亡くなったら、おじいちゃんひとりになっちゃうな」
と、思っている。
 
目が覚めて少ししてから、25年も前に祖父が亡くなっていることを思い出した。
それから、おばあちゃんはもう、おじいちゃんと同じところにいるのかもしれない
という思いが湧いてきた。
 
こちら側からは亡くなっているおじいちゃんが生きているのは
おじいちゃんが生きているところに、祖母が今もう移っているから
 
理屈が通っているのかわからないけれど
自然とそう腑に落ちた。
 
 
祖母は充分に生きて、ゆっくり亡くなっていったから
葬儀もどこかさっぱりとしていた。
 
お腹の中に、新しい人を感じながら
祖母の白くて軽いお骨を拾う。
 
 
私を乗せてくれている体という船は、
今、もうひとりの人が乗るための船を作っている。
やがて船出して、船はふたつになり
私を乗せてくれている船も、時の経過とともに魂を乗せきれず
白い骨になるのだろう。
 
そうしたらもう、骨壷に入れずに
土に埋めてほしい、と自然と思う。
 
骨が「私」ということもないだろう。
船を作ったもともとのもともとに、おかえししたい。
 
 
 
 
祖母の葬儀をきっかけに、実家でゆっくり過ごして
普段会えない友人ともゆっくり時間を気にせずに言葉を交わし
こんがらがっていた気持ちが解けていった。
 

今まで、ひとり乗りで生きていた時と
自分が大きく、変わっているのを感じている。
 
暮らしたい場所や生き方が、塗り替えられていくみたい。
 
目印にしていたものが急に目の前からなくなってしまったような感覚で
焦りや不安が起こることもある。
 
体の感覚も日に日にかわる。
 
 
 
戸惑っているけれど
戸惑っている、ということを
今は受けいれられた。
 
 
私があてにしていた「私」を見失ってしまった。
 
だから
新しい声に、耳を傾け生きてみよう。
 
どこに運ばれるかはわからない。
 
わからないのだ、ということに
YESと返事する。