2022年7月27日水曜日

 

風邪をひいていた娘が、ようやくいつもの調子を取り戻し始め
保育園にも通えるようになった。
 
引っ越し前からいただいていたイラストも締め切り直前に
無事に先方に送ることができて、ほっとした。

 

シロップを作ろうと買っていた赤紫蘇は、娘の看病で手がまわらず
悪くしてしまった。

熟れすすんでいたプラムは、今日なんとかシロップに煮詰めることができた。

 

小さなホーローの鍋に、熟れすぎたプラムを3つとお砂糖を入れて煮詰める。

久しぶりに買った「暮しの手帖」の記事のひとつで
中野にあったカルマの名前を見たせいか

コトコト煮詰めている小さな鍋の中の赤いプラムと木べらと
実家みたいな、古いキッチンが記憶を呼んで

吉祥寺とか、国分寺とか、20代の時に友人を訪ねたり
一緒にご飯を食べに行った街の自由な感じがふわっと起こってくる。

私は最近、多分SNSを見すぎていて

SNSのために編集された(撮ろうとして撮ってる)ものを

見過ぎていて

「どうしようもなくそうなってしまう」ような

やさしさや、小さなものの重なりや、そのひとらしさみたいなものから

どんどん感覚が遠くなってしまっていたけれど

(たぶん、やはり、ひとのにおいがするものは、
小さなところに立ち上がるのかもしれない。
意識しきれない、そのひとのおこないの、
そのひとがみえていないところに)
 
あぁ、そうじゃないよな

あぁ、そうだったな


そんな気持ちが起こる。


誰にもいわない

誰もみていない


それなのに立ち上がる、ちいさな


ちかしくなったときにだけ不意にあらわれる

おふとんのふかふか

好きであつめたお皿

ここで見つけた、とか
これが好きだって
誰かに聞いてほしい

でも、誰もいない

それでぽちぽちとメールを打ったり
手紙を書いたり

ノートに記したり

写真を撮ったり

紙をちょきちょき貼り貼りしてZINEなんて作ったりして

誰でもが受け取れるわけじゃないから

届いた時に奇跡が起こるような
 
 



プラムを煮詰めて、シロップができた。

近くのスーパーで炭酸水を買ってきて

ソーダ割りして飲んだ。

お休みだった夫も一緒に。

 

スプーンでコップの底をかきまぜながら。

 

 

大きな声で話すと、消えてしまうこと。

小さな声で話すとき、言葉の周りに浮かぶ気配のようなもののはなし。


そんなことを。





2022年7月14日木曜日

 

引越しが終わった。

まだまだ荷解きはあるけれど、
ひとまず居間の荷解きはほとんど終わって
台所にも立てるし食事もできるようになった。

 

賃貸の、古い一軒家なのだけれど

お風呂が大きかったり
台所もシンクがとても大きくて収納もたくさんあって
どんな人が最初に建てたんだろう…とつい思いを馳せてしまう。

台所に小窓があり、その縁にちょうど植物が置けたり
台所に立ちながら、子どもが遊んでいる姿を見ることができて
子どもからも私が見えたり。

暮らしのことが、すごくよく考えられて作られている感じがする。
 
昨日は、システムキッチンの前の床に
床下収納を見つけて、梅酒とか、梅干しとか
保存食を作る人だったんだろうか…と思ったり。

 

 

階段の壁についた小窓の縁に
引越し当日思い立って
小さなガラスコップに入れた花を飾ったとき


ふと気分がよくなって
自分が嬉しくなるのって
こういうところなんだって思った。
 
 
それは誰も知らないし
雑誌にも載ってないから

わたしが、おぼえていよう。

握りしめずに ふんわりと。

 

3階建ての家で、3階にあるベランダに立つと
山が見えて、月が見えた。
 
そのベランダの窓を網戸にして
寝室にした部屋で眠っていると
涼しい風が吹いてくる。

山から渡ってきてる、そういう感じがして
 
そうすると、風はどこで生まれるんだろう
と、瞼を閉じたところにふと思いが湧く。
 
そんな思いが懐かしくて
親しみ深くて
またこの感覚に出会えて嬉しかった。

空が広くて、山の息がここまで届いてくる。


娘は事前にちょっとずつ話していたことと
保育園の先生たちも「楽しみだね」と声をかけてくださったおかげで
比較的すぐに引越し先にも馴染んでいるように思える。

家の中にあるものは前の家から使っているものだし
使い込んでいるものが目に入れば自然と体も緩む気がする。


引越しのために、前の家で荷詰めをしている時
自分の荷物の少なさをあらためて感じた。

衣類や本もたびたび手放してコンパクトにしているから。

でも一方で、全巻揃ってる日焼けした漫画本とか、
古本屋でちびちび集めた好きな作家の小説とか(実家にあるものもある)
そういうものが、あってもいいな。。とふと思った。

必要なものだけ

今、心惹かれるものだけ

じゃなくて

目に入るだけでちょっと心がふわっとする、好きなものたちが
暮らしの中に、はみ出してていい。

そんなふうに思った。

 

新しく暮らし始めた家はきっと、自分の親世代が作った。
(私の実家とよく似てるところもある)
まだ景気がよかった頃に建てられた余裕のある感じというか
削ぎ落としていく方向とはまた違うものを感じる。

なにしろ、これでもかというくらい収納スペースがある。
そのおかげで多分、荷解きも楽だったし
(あたまを無にして、解いたものを入れていけば収まる)
それをスカスカで使っている気持ちよさもまた。


入居前に外観を見て気になっていた
エアコンホースのテープが傷んでいるのも、
入居当日エアコン設置に来てくれた電気屋さんに夫が頼んで直してもらって
 
玄関前に生えていた雑草も、100円ショップで買った釜で刈った。
釜で草を刈る時に、畑をしていたおばあちゃんやおじいちゃんのことが思い浮かんで
それもなんだか嬉しかった。


手を入れていくと、荒れている感じがちょっとずつ減って
ととのっていく。


前の家で荷造りをしている中で

いちばん大変だったのが台所だった。

器類をプチプチで包んで包んで包んで

しまいながらもまだご飯も食べるし飲み物も飲むし
使うものもあるから、使うことを考えたり 

冷蔵庫が切れたら、溶けてしまうもの、傷んでしまうものの処理を思ったり

それで、台所って生物なんだなって思った。
いきもの、というのか
なまもの、というのか

家の中の内臓のような場所

湿っていて、手を入れたらそのたび生きて
手をかけなくなればどどっと朽ちていく場所。


使った部屋を掃除しながら

こうやって自分の気配を瞬間瞬間消しながら

暮らしていくことについて思ったり
(ドン・ファンがそういうことを言っていたはず)
 

まとまらないまま。



まだ自分の荷物は段ボールの中。
ゆっくり解こうと思う。