風邪をひいていた娘が、ようやくいつもの調子を取り戻し始め
保育園にも通えるようになった。
引っ越し前からいただいていたイラストも締め切り直前に
無事に先方に送ることができて、ほっとした。
シロップを作ろうと買っていた赤紫蘇は、娘の看病で手がまわらず
悪くしてしまった。
熟れすすんでいたプラムは、今日なんとかシロップに煮詰めることができた。
小さなホーローの鍋に、熟れすぎたプラムを3つとお砂糖を入れて煮詰める。
久しぶりに買った「暮しの手帖」の記事のひとつで
中野にあったカルマの名前を見たせいか
コトコト煮詰めている小さな鍋の中の赤いプラムと木べらと
実家みたいな、古いキッチンが記憶を呼んで
吉祥寺とか、国分寺とか、20代の時に友人を訪ねたり
一緒にご飯を食べに行った街の自由な感じがふわっと起こってくる。
私は最近、多分SNSを見すぎていて
SNSのために編集された(撮ろうとして撮ってる)ものを
見過ぎていて
「どうしようもなくそうなってしまう」ような
やさしさや、小さなものの重なりや、そのひとらしさみたいなものから
どんどん感覚が遠くなってしまっていたけれど
(たぶん、やはり、ひとのにおいがするものは、
小さなところに立ち上がるのかもしれない。
意識しきれない、そのひとのおこないの、
そのひとがみえていないところに)
あぁ、そうじゃないよな
あぁ、そうだったな
そんな気持ちが起こる。
誰にもいわない
誰もみていない
それなのに立ち上がる、ちいさな
ちかしくなったときにだけ不意にあらわれる
おふとんのふかふか
好きであつめたお皿
ここで見つけた、とか
これが好きだって
誰かに聞いてほしい
でも、誰もいない
それでぽちぽちとメールを打ったり
手紙を書いたり
ノートに記したり
写真を撮ったり
紙をちょきちょき貼り貼りしてZINEなんて作ったりして
誰でもが受け取れるわけじゃないから
届いた時に奇跡が起こるような
プラムを煮詰めて、シロップができた。
近くのスーパーで炭酸水を買ってきて
ソーダ割りして飲んだ。
お休みだった夫も一緒に。
スプーンでコップの底をかきまぜながら。
大きな声で話すと、消えてしまうこと。
小さな声で話すとき、言葉の周りに浮かぶ気配のようなもののはなし。
そんなことを。