2020年1月31日金曜日



昨年も思ったけれど
冬になると、天気雨のよく降る土地だ。

それでか
昨日、久しぶりに土手に出たら
川のむこうに虹がかかっているのが見えた。
 
 
川をまたぐようにして、
岸と岸に裾を落として。
 
 
 
アルバムジャケットのデザインは
使用する写真がほぼ決まって、
歌詞カードの文字組みに入った。

口ずさむくらい、歌を覚えてしまっているけれど
歌詞が文字になったものを読むと
また違う感触がくる。

目からも、入ってくる言葉。



文字組みの参考にしたくて、本を開いたり
雑誌を眺めたり。


その中で、編集長が新しくなったという「暮しの手帖」も
なんども手にとり、開いている。


表紙に書かれた言葉は
「丁寧な暮らしではなくても」

「丁寧な暮らし」と言った途端に、ラベリングされてしまう感じがする

ということへの、違和感を背景に
その人、その呼吸、1度きりの、その人の生きる暮らしの
その人の声を、という思いで
雑誌を作ろうとされている。

新編集長の言葉を、そんな風に読んだ。


これは!と思って、本屋さんで見つけた
「暮しの手帖」4月号、とてもいい。
光も影もあって、風通しがいい。


開いた感じもすっとしてよくて、
何が変わったんだろう?と思ってレイアウトを見ていて

赤文字がなくなっていることに気が付いた。

記事の中に見出しはあるけれど
色がついていても、ブルーや茶色で
赤っぽい字はない。


見出しだけがパッと目に入ってくることなく
記事に目が進んでいく。


この気持ちよさなんだ、と思った。

記事が、トピックスとして、入ってこないこと。


テレビ番組から、テロップがなくなったような
そんな感じに、ちょっと近いかもしれない。


最近、友人から聞いた「わからなさ」の中を聞いていく、という話を思い出す。
「わかった」と認識した時、認識されたもの、それ以外が
脳内で編集されて、ごそっと「なくなってしまう」という話。

だから、「わからないまま」いく。


繊細になり、感度をあげ
わからないまま、手探りで、歩みを進める。

光を受け、影を感じ、風を受けて、そのたび、気温が少し、変わるのも
肌におぼえる感触も、感じながら
ただ歩み進めていく。




2020年1月24日金曜日




ここ数日、
朝食の食器を洗う前に
台所で野菜をさくさくと切り、水と一緒に鍋に入れて火にかける。

お味噌汁を作るときは、出汁パックも一緒に入れて
野菜が柔らかくなったら火をとめる。

スープを作る時には、そのまま味付けまでして置いておく。

火にかけているうちに
野菜を切る時に使った包丁とまな板も、朝食の食器と一緒に洗って片付ける。
まだもう少し、野菜に火が通るのに時間が必要なら
床にクイックルワイパーをかけたり
洗濯物の様子を気にかけたりする。
 
 
そうして出来たスープ(お味噌汁だったら、お味噌を入れる手前までのもの)は
晩のおかずになる。


朝の自分から、夜の自分へのバトン。
それで、日が暮れてからの私は、すこし楽になっている。


日中は黙々とパソコンに向かって作業をしているけれど
夢中になって気づいたら時間が経っていても
汁ものができているから、安心。


自分で見つける、自分のリズム。
誰にも話さない、小さな工夫。
 
 

明日は、新しい冷蔵庫がやってくるので
お昼は冷凍庫の水餃子を、湯がいていただこう。

今の冷蔵庫は夫がひとり暮らししている時に使っていた、
小さな冷蔵庫。
冷凍のストックをもう少ししたかったり
作り置きができるように、
赤ちゃんがやってくる前に、もう少し大きなものに変えることになった。
 
 
最近、台所に立ちながらふと
大阪でひとり暮らしをしていた時の小さなワンルームを思い出す。
カセットコンロを置いて、ご飯を作っていた日々。

何もかもが最小限だった。
でもひとりだったらなんとか、くるくると回すことのできた
冷蔵庫も、炊飯器も、おふとんも何もかもひとつの部屋に集まった
小さな暮らし。

ふたりで暮らすことになって
台所はぐんと広がった。
引っ越してきたばかりの時、「魚焼きグリルで、魚を焼ける」と夫は喜んでいた。
ひとり暮らしの時は、夫もひと口コンロを使っていたから。

ひとりから、ふたりになると
こんなに景色は、広がるんだ、と思った。


洗濯機と、ものほし竿と、クーラーの室外機でぎゅうぎゅうだった
ひとり暮らしの部屋の小さなベランダ。

今は、ゆうゆう、洗濯物をほせるベランダに。


冷蔵庫の話。

ひとり暮らし用の冷蔵庫はしばしばギュウギュウになったけど
ふたりのままなら、なんとか工夫しながらこれでもいいね、という感じでいた。
それがもうひとりやってくる、となったら
やっぱり小さくなって

きっと生活が変わるから、
それに備えて少し大きな冷蔵庫を、となった。


一緒に生きる誰かがいることで
自分のいる世界がささやかに、でもみるみると
変わっていく。



昨夜、ふとんに横になったら
赤ちゃんがお腹をけるので
「お、動いてる」と言ったら
夫が私のお腹に手を当てた。

手を当てて夫が話しかけると
お腹の中からぽんぽん、と蹴ってくる。

「聞こえているのかな」
「聞こえているんだよ」






 


2020年1月14日火曜日


 
昨日はよく晴れた祝日で、
夫のアルバムのジャケットに使う写真を撮影しに出かけた。

朝、早起きをして
撮影のための道具を確認して、コーヒーとお茶を水筒に入れ
膨らんだリュックを背負って家を出た。

写真を撮ってくれるのは、市内に暮らしている詩人の女性で
彼女が詩と彼女自身が写した写真をあわせて
季節ごとにフリーペーパーを出しているのを毎回もらっていて

ジャケット写真の話になった時に
彼女に写してもらうのはどうだろう、
と思いついた。

眼差しが新鮮で、何気ない景色が
新しく写る彼女の写真が好きだった。

 
快く引き受けてくれた彼女の写真はやっぱり光に溢れていて
焼きあがった写真を見せてもらうと、
その眼差しに心がとおる。
 
 
初回の撮影はお天気が危うくて
昨日は2度目の撮影をお願いしたのだけれど
それにも快く応じてくださり、緑の中を3人で歩きながら
撮影を続けた。

のんびりと散歩しているおじちゃんが
微笑みながらこちらを眺めて、通り過ぎていったり

数メートル先で子どもたちが遊び始めたり
柔らかな空間の続きでの撮影。
 
 
 
そのあたたかなひかりが
どうかうつっていますように
 
 
 
*

   * *

                 :::

       * *  **  

 
 
 
世界の声が、変わってきている気がする。


もう戻らなくていい。

 
 
 
 
・・・



母から、
子育て期間中の記録に使ったらいいよ、と「3年日記」という3年分の日記帳が届いた。

初めは、続かないのではと思ったけれど
届いた日から書き始めると、1日分のスペースが小さいので
起こった出来事をメモのように綴るだけで埋まってしまう。
それが気軽で
また、夜にその日のことを振り返るのも楽しくて ひとまず3日続いたところ。
  
それでも、昨日のこと、2日前のこと
読み返すと
「あぁ、こんなことあったなぁ」と思うくらい
もう遠くて、懐かしいのだから不思議。


書ききれないことの方が多いけれど
光の断片が記されているだけでも
その時間が近づいてきて、そっと胸に手をあててくれているみたいだ。

 
 




 



2020年1月11日土曜日



歌を歌っている夫が新しいアルバムを作るために
昨年からずっと準備を重ねていて
いよいよ音源が出来上がったので、ジャケットを担当することとなった。

CDジャケットのデザインに関わるのは
気がついたら4枚目。
最初はイラストでの参加だった。
2枚目は、進行管理や調整役で
3枚目は、いよいよ自分ひとりでやるしかなくなって、
写真撮影は友人にお願いしたけれど、残りのことは自分でやった。

手探りでちょっとずつ。

それでも、作品を発表する、そのイメージをお願いしてもらえるというのは
胸が震えるほど尊い経験だし、
とても楽しい。
 
夫とは一緒に生活していて、距離も近い。
たくさんのものを共有しているから、
つい「わたしがいいと思うもの」にくく〜っと入り込んでいってしまう。

それに「違う」と言われると、素直にムカッとしてしまう。


でも、一度、作品に触れながら私が本当にいいと思った形を作らせてもらって
それを叩き台にして、また彼の話を聞いていると
彼の眼差しがわかってくる。

何をいいと思っているのか
どんなことが気にかかるのか

心地いいと感じるライン
 
それは「わたし」ではない。

よく知っている、すぐに間近を生きている人なのに「わたし」ではなく
彼の眼差しが、彼独自のもので、決してわたしと同じではない
一緒にいながらも、違う視点、違う世界を生きているということに気づかされる。


食卓を囲んでいても、
私の目には彼が映っていて、自分自身の姿は手元しか見えないけれど
彼の目には私が映っていて、私が見えている彼の姿は彼の目に映ることはない。


同じ空間を365日生きながら
私たちは、違うスペースの住人なんだ。

そんなことに新鮮に驚きながら
「かれ」の眼差しを歩いてみる。

少しずつ、「かれ」の心が通る場所がわかってくる。
新しい星に、上陸したような、不思議な感覚が流れてくる。


 
「かれ」の心が通る、イメージになって
「かれ」の作った音楽が、世界に光みたいに
響いていくように

そんな願いを抱きながら、今日も手をうごかす。 
 

2020年1月7日火曜日


昨年、気に入っていた服の染みがついてしまったところに
好きな言葉を書いた布をチクチクと縫い重ねた。

好きな言葉は、ガンジーの言葉。
Live Simply That Others MaySimply Live.

 
手縫いでチクチクと縫い合わせている時に、手まで震えそうなくらい
胸が震えてドキドキした。

年が明けて、今年(というか今)やりたいことを
ノートに書いていた時に、布、色、言葉、詩、というのが出てきて
イメージが浮かんでくると同時に胸がドキドキキラキラして光が溢れてきたので
紙を探してすぐにスケッチした。

なんだかわからないけれど
とてもドキドキすること。夢見てるだけじゃなくて、形にしてみたくなった。

それで本当は布も選んで草木染めしたいけれど
まずはまずは、と思い、麻のエコバッグを買ってきて、布染色用の絵の具で染めて
アイロンプリントのシートに詩をプリントして、染めたバッグにプリントした。

つたなさも含めて

出来上がったものを見てとても愛おしくなって
昨夜は布団の中までバッグを持ち込んで眠る前にも眺めた。
ずっとやりたかったことと、通じた感じがする。



やわらかい布を綺麗な色に染めて
詩を重ねて
バッグやハンカチや服にしたい。

それが何になるかわからないけれど

したいからしてみる
 
最近はそれがすべて、それで充分。ということに
深く納得している。


人に伝えるもの、仕事になるもの、に
自分の好きなものを繋げようと随分してきたけど
多分、それはそうなるものがそうなる

そうならなくても、ただ自分の喜びの表現として
手を動かし、かたちに触れていいんだと
ここ最近のところで、本当に納得がいった。

 
小さな頃、無限に描いたらくがきのように
本の世界に没頭したように。


このドキドキに乗って、作っていこう。



お正月、1月3日
夫が仕事だったので、暇を持て余して
コーヒー豆を買いに行った。
 
てくてくと歩いて、いつもの喫茶店。

お正月から開いているので
参拝帰りの家族連れで賑わっている。

お茶は諦めてコーヒー豆だけ注文しようとしていると

優しい店員さんが
1人分の席をつくってくれた。

アメリカンコーヒーを一杯飲みながら
コーヒー豆をつめてもらうのを待つ。

お客さんはみんな機嫌よさそうに過ごしていて
なんだかこちらまでのんびりとしたいい気分になってくる。


優しかった店員さんは、はじめて見たメガネのお姉さん
いつものお兄さんがカウンターの中でコーヒーを淹れている。


心が明るくなったから
鴨川沿い歩いて北上。散歩を続ける。

子どもたちが土手で遊んでいる。
小さな金髪の女の子ががむしゃらに自転車を漕いで、何往復もしている。
走り過ぎていった女の子の金髪が美しいのを眺めた。
 
女の子は翻してきて、また猛スピードで自転車を漕ぎ、すれ違う。
そうしてまた、こちらへUターンしてきたのだろう。
後ろで、ドタッという音がして振り返ると
女の子が転んでいて、体の上に淡いむらさき色の自転車が乗っかっている。

思わず駆け寄って「大丈夫?」と声をかけると
「アーユーオーケー?」という声が重なって、彼女の父親らしき男性が走ってきた。
女の子は泣かなかった。強い目でこちらを見ていた。

「大丈夫?」と「アーユーオーケー?」が
同じことをさしているのと、体験から実感した不思議な感触。
女の子は大丈夫そうだったから、私はまた散歩を続けて
「大丈夫?」「アーユーオーケー?」と頭の中で何度か呟いた。


鴨川

歩く先に
やまなみがみえる 

青の層 山は青い影

その色が違う

心が晩ご飯のことを考えるともなく考えたり、昨年あった出来事をふと思い返したりしていることに気づき

どこかに向かうのをやめてみる、と思った。

そうして心をあちこちへ流さず、どこへも向かうのをやめると

視界の先で、山がたちのぼってくる。

青の重なりが
心に響いてくる

あぁ


もっと北上

空が晴れてきて
山の木々のかげがみえてくる

なるようになる

思考の綾
意図の綾

幾重にも飛ばし
他者にうつる姿
自分自身の捉える自分像を
操ろうとしても

それらが響くのは
ほんのすこしのところ

そこに時間は流れない

時間があるのは
  
浅い意図の及ばないところ

なるようになる景色

空や山が
目に入ってくるのを
くるままに

わたしもまたわたしという自然のあるままに


意図の綾
思考の綾の外側

外側に出た時
外側が内側と気づかされる
 
 
 
どこへも向かわない、という在り方で
今年は暮らしてみよう。