2020年8月31日月曜日

 

週末に

商店街に立つ八百屋さんで買ってきた野菜たちが美味しい。

ミニトマトは深いあまみ。

ピーマンはパリッとして肉厚でしっかりと苦い。

それで料理が楽しい。

 

 

夕方、眠たくなった娘のご機嫌具合や

そのあとのお風呂が控えているから

晩ごはんの時間は30分くらい、娘をあやしつつ

必要な時は夫と順番に抱っこしつつ

どこかそわそわとしながらすすんでいくけれど

 

それでも、晩ごはんの時間は毎日、嬉しく、楽しい。

 

午前中から、合間合間を見計って

ちょっとずつ下ごしらえしていくのも、楽しい。

 

午前中に簡単な副菜を作れたら作っておいたり

サラダの野菜を切って、ざるにあげて冷蔵庫の中で水切りしておく。
 
 
午後の合間にお味噌汁のお味噌をいれる手前までお鍋に作っておいて

メインの食材を切ったり、つけたり、下ごしらえしておく。
 
 
夫が帰ってくる30分前くらいに
娘が眠っていたり、ひとり遊びをしていたら
メインを作ってしまっておいて
 
もし、できなかったら、夫が帰ってきてからさっと作って食べる。
 
 
昨日、晩ごはんを食べながら夫に

「ごはんを食べられることって人間に生まれてよかったことベスト3に入ると思う」

と言ったら、夫も頷いてくれた。
 
 
こんなにたくさんのものを

いろんな工夫して

様々な場面で あるいは季節で

ひとりで または誰かと たのしめるって、すごい。

さらに、食器を選ぶ楽しみだとか、ごはんの周りにはいろんな喜びがある。

人間に生まれてきてよかった。

 

 

今夜は、鶏肉と、小松菜と、卵を甘辛く炒めたのがメインで

スライスした玉ねぎとサニーレタスとミニトマトをサラダにして

玉ねぎとじゃがいもと、おあげのお味噌汁。

それから、冷蔵庫にずっと眠っていた白滝を炒めたやつも、おかずにする。

 

 

娘をお布団の上で寝かしつけしていたら

夕立が激しく降った。

 

娘が眠った後でベランダに立つと、洗濯物が濡れているので

取り込んで、また洗濯機にかけている。

明日の午前中も雷雨の予報が出ているけれど

今からほしておけば、朝までには乾いているだろう。
 
 
 
暑すぎる夏だったけれど

洗濯物がからりとすぐに乾くところは、最高だった。

 

 

でももう、空が秋。

雲の広がり方も、光ののび方も。

影も薄く、長くなってきた。

 

秋になったら、

娘を連れて、ピクニックへ行こう。

 

京都御所とか、鴨川まで。

 

 

娘が産まれたばかりの時に

区の保健師さんがきてくれた時に

「遠くへ行きたいとか、思いませんか?」と聞かれた時

ずっと家の中にいて、「遠く」があるなんてことも、感じられなくなってるって思った。

 

それでも、その会話の前に保健師さんが

「涼しくなったら御所とか一緒に散歩したり…」と言った言葉が響いていて

「遠くとかは思わないけど、さっき、涼しくなったら御所を一緒に散歩って聞いて、御所行きたいと思いました」

と答えたのだった。

 

あの時は、近所のはずの御所も

私の地図から消えてしまっていたけれど

またあの緑がわさわさと、近づいてきてくれた。

 

涼しくなるし

娘も成長してきている。

 

 

夢みたい、って思っていたこと

暮らしの続きにまで、見えてきてる。

 

 


 

2020年8月30日日曜日

 

今朝は少し貧血気味で

立ちくらみがしたので娘と寝転がりながら遊ぶ。

そのうちに眠たくなった娘がなかなか眠れず、

おっぱいをあげながら寝かそうとするけれど

貧血気味の時は、おっぱいをあげるのも少ししんどい。

 

すると夫が、鉄分の入ったドリンクを買いに行ってくれ

アイスクリームも一緒に買って帰ってきてくれた。

 

お昼に素麺を食べた後、

夫がコーヒーを淹れてくれる。

久しぶりのホットコーヒーと、バニラアイスクリームが美味しかった。

 

8月はずっとアイスコーヒーを飲んでいたから

気に入っている水色のマグカップにドリンクを淹れてもらったのも嬉しかった。

 

 

お笑い番組を見ながら、授乳していると娘が寝ついたので
お布団に娘をおろして、音楽会の絵の続きを描き始める。
 
水彩で色づけ。楽しい。

 

 

 

数日前に、友人たちに
「誰かのやりたいことの媒体を作るのが好き」と話したら
なんだかその前に話していた「自分のお店をやる」という言葉とずれてる感じがする、
と言われた。

自分の中ではしっくりきていると思っていたけれど
そう指摘されると、胸の中に空洞があらわれる。

あれれ、と思っていた時に


「なおみちゃん(小さなわたし)がやりたいことの媒体をなおみ(大人のわたし)が作る、っていうのは?」


と言われて

言われた瞬間に自分がぎゅーんと元気になった。

 

そして、小さなわたしが欲しがっているものは、

それはそれはたくさんあって、それを自分が作れると思うと

すごくすごく、わくわくしてきた。

 

 

水彩で絵を描いている時に、色が混じるのを見て

胸が踊るのは、そこととても、繋がっている。

 

 

この絵を描き終えたら

わたしの中の、小さな人のために
わたし、手を、目を、こころを

動かします。

2020年8月27日木曜日

  

あちこちに住む友人たちと

オンライン上で言葉を交わす。

それぞれの現在地の、輪郭が色濃く感じられて

それぞれに豊か。

わたしの日々もまた、誰のものでもなく

わたしの流れにある、わたしの日々。

 

自分では見えていなかったところを

私の言葉から、相手が見て言葉を返してくれるのもありがたい。

 

自分では何も思っていなかったところに光をあててもらった。

 

 

娘が産まれて3ヶ月を迎えた。

夫が仕事の帰りに、チーズケーキを買って帰ってきてくれる。

私はささやかな飾りを作って壁に貼った。

娘は何もわかっていないと思うけれど

「おめでとう」と声かけ、乾杯して晩ご飯を食べ

娘を寝かしつけてから、夫とふたりでチーズケーキを食べた。

 

3ヶ月の今日

娘は多分はじめて、笑みを浮かべるだけではなくて

声も出して笑った。

まだぎこちないような、ははは、という声。

思い返すと、なんだかお腹の奥がじーっとあたたまり、

あたたかさが胸にまで広がってくる。

ははは

ははは

何度も思い返してしまう声。



 

午前中は図書館へ行って、自分と娘の図書館の利用カードを作った。

いちばん近くの図書館は、1フロアでとても小さく

蔵書は少ないのかもしれないけれど、棚が見やすくていい図書館だと思った。

娘に絵本と、私も自分のために本を3冊借りた。

 

 

日々はどんどん、流れていく。

 

日に日に、すくすくと育っていく娘の姿が眩しい。


それと同時に、産まれたばかりの頃のヒヨコのような小ささは

もう通り過ぎた時間の中にあって

今、一滴一滴こぼれる雫のような

与えられた日々の中にいる、と気づく。

 

 


 



2020年8月23日日曜日

 


暑くなってから、スーパーで紙パックのアイスコーヒーを買って

それで毎朝コーヒー牛乳を飲んでいたけれど


ここ数日は、夫が夜にエスプレッソを作っておいてくれて

朝、そのエスプレッソを牛乳で割って

つめたいコーヒー牛乳を飲んでいる。

 

やっぱり、全然、違って

コーヒーの風味と苦味が牛乳の奥にちゃんと感じられて美味しい。

 

あまりにも美味しくて感動していたら、

地元に住んでいた頃、

遊びに行くと、よくエスプレッソを淹れて

それでカフェオレを作って飲ませてくれた友人が

夢に出てきた。



夢の中だけれど、久しぶりに会えて

目が覚めてからも嬉しかった。

 


娘の授乳で睡眠が細切れなので、夢をよく見る。

 

この間は、夢の中で龍を見たのだけれど

それが本当に美しかったので、目が覚めてからも何度も思い返していた。

 

かと思えば、全然意識したことのない芸能人が親しげに登場したり

なんともどうでもいい夢も見ている。

 

 

少し前に(ここからは、夢ではなくて、目が覚めている時の話)
しばらく連絡をとっていなかった友だちから急に電話がかかってきたことがあった。

 

知人と友だちの間で私の話になって

それで、どうしているかなって、連絡をくれたらしい。

 

久しぶりにその友だちと話ができて、嬉しかった。

 

 

それをきっかけに、連絡を取らずにいた友人たちに

娘が生まれた報告も兼ねて、ちょっとずつメッセージを送り始めると

あたたかい返信が次々に届いて、読むたびに、相手の顔が近く思い浮かんできて

とても嬉しくなった。

 

 

ひとはそれぞれ小舟に乗っていて

 

同じ潮流に乗っている時もあれば

違う海に出ている時もあるから

 

親しく思っている人でも、便りなくいることもよくある。

 

それはそれぞれが、それぞれの人生を毎日生きているということ。

 

でも、だけど、

おーい、と呼び掛けた時に

おーい、と返事が聞こえたら、とたんに嬉しいし

 

ふいに


おーい、って、呼び掛けられたら

やっぱり、やっぱり、嬉しくなるんだ。

 


 

(声って、扉なんだな。)


 

 




 


 

 



2020年8月20日木曜日

 9月までに、と約束した

音楽会の宣伝用のイラストを、少しずつ描き進めている。

 

演奏する曲を聞いて浮かんだスケッチから

今回は何回か下絵を重ねて、絵のタッチを色々と試して

今、ようやく本番の絵に色つけをしているところ。

 

 

今朝は、娘が6時に起きたので

授乳を終えて寝ついた娘を布団に戻して

こつこつと色を塗り進める。

 

毎日、娘のぐにゃんぐにゃんの柔らかい体を触っているから

絵の中の線も柔らかくなるのが、おもしろい。

 

 

30分ほど描きすすめて 娘の声が聞こえたのでお布団に戻り

布団の上で娘とちょっと遊んでから起きて

今日も休みの夫と朝ごはんを食べた。

 

 

布団から体を起こす前に、昨日からグーンと伸びをして

深呼吸を何度か繰り返している。

 

それからヨガのこどものポーズをとって

背中と腰を伸ばしながら、ゆっくり呼吸をする。

その時に、

息を吸った時、お尻から腰、背中、腕、と

清流みたいな綺麗な空気がすーっと流れ渡るのをイメージして

吐いてそれがまた流れ出ていくのをイメージする。

 

そうすると自然と、祈りのような言葉が浮かんでくるから

心の中でそれを呟いてから

 

体を起こしている。

 

それだけで、昨日も今日も、朝のはじまりがととのっている感じがする。

 

朝が一番、体がキシキシで疲れていることが続いて

夫にあたってしまったので

自分でちょっとずつでも、自分のケアをしようと思った。

 

 

不動産探しは、静かに夫が続けていて

私も、自分がどんな風に暮らしたいと思っているのか

実際に家を見てまわって、なんだかわかってきた。

 

 

いろいろなものは縁だと思うから

あかない扉は押しても引いてもあかないし

行ける時には行けるもの。

 

丁寧に、心身をあるようにととのえていられれば

やってくるものが最善なんだと、そう感じられる。


焦って手足をかき回してしまう時は

「ない」ものを探している時。

空っぽに向かって、手足を泳がせている時。

 

 

「ある」ものにしか、触れられないから

いつでも、目の前のことから、なんだろうなと思う。

2020年8月19日水曜日

 夫がお休みの平日。

 

お昼の素麺を食べ終えたあと

夫が「出かけておいで」と言ってくれたので

ちょうどお昼寝を始めた娘を夫に見てもらうことにして

自転車に乗って、名前のない喫茶店を目指した。

 

 

喫茶店へ入ると

「今日はおひとりで」と店主の方が声をかけてくださり

「羽をのばしておいでと言ってもらいました」と答える。

 

あんみつと、生葡萄ソーダを頼んで

持っていった本を取り出して読み始める。

 

ひとりで喫茶店は産後初めて。

ゆっくり読書できるのも嬉しい。

 

じわん、じわん、と内側から水が

溢れてくるようだった。

 

 

生葡萄ソーダを作ってもらう時に

葡萄をミキサーにかけた音がして、びくっと反応してしまう。

不意に思ったのは「起きちゃう!」で

自分の中に、眠った娘を起こさないように、というスイッチが

すっかりオンになっているんだな、と知る。

 


生葡萄ソーダは綺麗な淡いむらさきで

若い頃のユーミンがかかっていて

あんみつの黒蜜が美味しかった。

 



開いた本に、あかりとりから射し込んだ外の光が

線状にはしる。

 


ひとりの時に思ったことをちゃんと収めておこう、と思って

手帳をひらいて、少しメモもとったりもした。

 

 

 

この頃は、眠りが細切れだから、夢をよく見たり

眠っているのと起きているのとの間でふと、いろんなことが思い浮かんでくる。

 

今朝、ふと思ったのは

わたしは、何かと、何かの、あいだのことをやりたいんだなぁということ。

展示会のDMを作ったり
誰かのHPを作ったり、CDのジャケットを作ったり

誰かが心から作ったものを

誰かに渡す時に

それを運ぶ乗り物というか、箱というか、包装紙というか

そういうものをつくるのが好きなんだ、ということ。


だから、自分が作った香りに言葉をあてたいとは、思わなかったんだ。

 

今も、夏がはじまる前に頼んでくれた

音楽会の宣伝につかうイラストを描いている。

 

音楽会で弾く曲を教えてもらって

その曲を聴きながら浮かぶイメージを線や色に変えていく。

それは、自分が、自然とできることで

好きなこと。

 

 

そんな思いついたことを、メモしたり

友人の美容室に髪を切りに行った夢を見たことを、メモしたり、した。

 

 

お店を出る時、店主の方が

「また旦那さんと一緒にきてください」と声をかけてくださった。

 

夫へのお土産、クッキーを包んでもらって

自分の呼吸をとりもどして

家へ帰った。

 



 お盆の送り火

 

16日の夜、「五山送り火」をみに

娘のお風呂を少し遅らせてもらって、親子で鴨川の土手へ出ていき

「大」の字を見た。

 

 

暗くなった道を鴨川まで歩いていく。

夫に抱かれた娘は静かで

私は夜の空気が新鮮で、娘を産んでから、初めて夜道を歩いていることに気付いた。

 

夜はぬめりと明るい黒。

 

鴨川の土手を目指して歩いていると

後ろに足音が重なって行って

点火の時間を目指して、私たちと同じようにおもてへ出た人たちに触れる。

 

なんとなくそわそわと、浮き足立った明るい足音。

 

鴨川の土手にはもう人が集まっていて

今年は規模縮小のために、「大」の文字の、端っこだけ点々と灯されて

まるで星座のようになった「大文字」を眺めていた。

 

「初めての送り火だね」と娘に声をかける。

娘の目に遠くの山の、小さな光はうつっただろうか。

帰り道に夫が「手を合わせている人もいたね」と言った。

 

ついつい、花火のように「見えた見えた」とはしゃいでしまう五山送り火だけれど

そうだ、送り火なのだ。

 

思い込みかもしれないけれど、送り火の翌日から

空気の密度がすーっと軽くなる気が毎年する。

 

それで

精霊たちは、無事に空に戻れたのかな

と思う。

 

 

 



2020年8月16日日曜日

 

土をこねるように。

 

 

 

娘と暮らすには、夫と2人で暮らすために借りた

今の家では暮らしにくいかもしれない、と、家族で家探しを始めた。

 

とはいえ、現実的には保育園探しも始めないといけない今

引越しを同時進行するのは難しいかもしれない。

今住んでいる家で、3人で暮らしやすいように工夫して暮らすのがいいのかもしれない。

というところに、今は落ち着きそう・・・

 

それでも

実際に不動産屋さんへ行って物件を見させてもらったり、

ネットで見つけた良さそうな物件の、地図を調べて出かけてみて

外観を見たり、家の周りを歩いたり。

そんな時間を、引き続き過ごしている。

 

 

不動産屋さんに物件を見せてもらって

「ここじゃない」ということがわかると

今、住んでいる家も場所も、いい環境なんだということが

あらためてわかってきて

 

今の家を見つけた時、どんな感じだっただろうと思い返したり

これからどんな風に暮らしていきたいのか、考え始めたり。



土をこねるように

 

ぐるぐると歩きながら

 

「ここ」と思える場所を

 

さぐりだしているような気がする。

 

 

ぼんやり住んでみたいなと思っていた土地に、

実際足を運んでみると あまり光を感じなかったり。

 

 

考えてもみなかった場所を歩いた時に

なんだかいい感じがする、と思いが湧いたり。

 

 

もし今回、引っ越すことになっても

ならなくても

 

娘が生まれて、今、3人暮らしになって

これからのこと

夫と探しながら、話す時間は楽しい。

 

 

話しながら、

自分はどんな風に暮らしていきたいのかも

街を歩いた体感を通して、知っていく。



話す中でふと、

今、3人で暮らす家も

20年ほどで

またきっと、2人暮らしに戻るんだということに触れながら

 

一生暮らせる家は、まだ見つけられないかもしれないけれど


まずは3人で、楽しく

それから

安心して、暮らせる場所を

育めたらいいな


と思う。

2020年8月14日金曜日

昨日、娘の寝かしつけをしている時にふと

「自分の人生を修正できるなら」というアイデアが浮かんでくる。


今、会えている人とはどんな道筋でも会える、という都合のよい条件をつけて

寝ぼけながらふわふわと思いを漂わせる。

 

すぐに浮かんだのは、中学時代バスケ部だったけれど

美術部に入る。ということ。

 

母に「中学時代は体力をつけるために運動部に入ったほうがいい」と言われて

なんの疑問も持たず、運動は苦手だけれど、球技は比較的好きだったので

バスケ部に入った。

絵を描くのが好きなのだから、美術部に入ればよかった。

 

高校も、選び方がよく分からなくて、

学校見学へ行った時になんかいい感じがする、という理由で決めたけれど

(それはいちばんな理由になる気がするけれど)

自由な校風の高校に入学して、

高校に通いながら、本の装丁とか勉強できたらいいな。

 

大学は京都市内の大学に通う。

 


ここまで半分眠っている頭でふわふわと思い描きながら

「私、京都にくるんか(しかも随分と早く)」と、自分でハッとなった。


バスケ部に入って体力はついたと思うけれど

美術部に入って、放課後絵をかけたり、ヘンテコな先輩の圧を感じずに過ごせたら

そのほうが楽しそう。


そして、自分が娘に関わる時には

娘がどうしたいのかをまず聞くようにしよう、と思う。

子どもの頃は、ぽ〜っと生きていて、選び方を知らなかったから

「こうしたほうがいい」とポン、と言われたことを

その意図も知らないまま鵜呑みにするものだな、と思い返す。



大学は、自分の通った大学もとても楽しかったけど

京都の大学生を見ていると、河原で本を読んだり、お酒を飲んだり、楽しそう。

本屋も喫茶店もたくさんあって、自然も近く、いい場所だと思う。



自分は今、豊かな場所に暮らしているんだな、と感じる。



一方で、埼玉にいた頃に楽しかったのは

何もない市内に、一軒の喫茶店ができたことで

そこに人が集って、豊かな時間が流れ始めたこと。

 

文化が育っている土地のめぐみを受けて生きるのも楽しいし

野原に、自らがよいと感じるものを、小さく手作りして、生きるのも尊い。



2020年8月9日日曜日


 

今日は夫が娘をみていてくれるというので

ひとり静かな部屋で充分に眠らせてもらった。



 

娘をずっと見ていてくれた夫が

「大変さがちょっとわかったよ。ずっと泳いでいるみたい。岸につかない感じ」

と言ってくれて、その例えはまさにその通り、で

それから、理解してもらえるだけで、本当に報われる、と思えた。

 


夕方、夕飯を夫が作ってくれている間に

眠たくてぐずり始めた娘を抱き上げる。

 

娘を抱いてゆらゆら体を揺らしながら、窓の外を見ると

夕暮れの空が美しかった。

 

まだ水色が残る中、少しずつ光が引いて

雲の層の中に、西日に照ったピンク色の雲も混じって。

 

 

夕闇は静かにおちる。

いつの間にか、夏の真ん中。

夏の真ん中にはもう、残暑がかすみ見える不思議。

 

 

今日、娘の授乳中に

テレビをつけたら「この世界の片隅に」が放映されていて

しばらく見ていた。

 

空襲のシーンで、テレビからの爆撃の音で

おっぱいを飲みながら眠りかけていた娘がびくっと動いた。

 

それを見て、涙が流れた。

 

本当に、すくすくと、のびやかな命の、美しいこと。

その美しさの、あるままに。

 


2020年8月6日木曜日

 
風がとおった !
 
 
 
娘を寝かしつけてから、一緒に眠ってしまっていたのを夫に起こしてもらい
ずっと先送りにしていたことをやり
それから、保育園について調べてみた。
 
娘を保育園に預けるのに、来年の4月から入園させるのが
いちばん入りやすいらしく
そのためには11月に願書を提出する必要があって
気付いたら今のうちに、保育園の見学を始める必要がある。
 
 
考えていたら、それが現実なのに胸が苦しくなってくる。

娘を来年の春には保育園に預けることを思うと寂しくなり
保育園に預けるために、自分が仕事を始めることを思うと不安で心が縮まる。
 
 
それを夫に話すと
夫が
「ひとりじゃないよ。俺も○○ちゃん(娘)もいるよ」と言ってくれる。
その言葉を、そのまま聞きたいと思うけれど
「心が殻にとじこもろうとしてて、入ってこない」
と言う。
心に薄い砂糖の衣のような殻が、ぴしぴしとかぶさっているみたいな感じがした。
 
 
それでも、夫と話していて
夫の言葉も聞いているうちにふと

「パートで働いてその先に、お店をやる」というイメージが湧いて
夫に話した。
 
そのイメージが浮かんだ瞬間に心がパッと明るくなって、すっと軽くなった。
 
それから夫に
「お店って何?カフェ?」と聞かれて
 
コーヒーはある感じがするけれど、カフェではない。
もっと小さくて、灯台みたい。本が見える、これは何屋かな
と思っているうちに

あぁ、言葉のことをやろう!と思う。
 
自分の仕事を作ろう、と思ったら、どんどん心が生き生きしてきた。
 
 
夫にその話をしながら
台所に立ってお茶を入れている時に
詩を書いて、その詩に友人に香りを作ってもらって
スプレーボトルに入れて販売する、そんなイメージが湧いてくる。
 
トイレに行きながら
時々作っていたおみくじカード(言葉が書かれていて、好きに引いてもらう、と言うことをしていた)をもっと洗練した形にして販売しよう
と思いついたり
 
 
すると
あぁ、そもそも、いちばんはじめに大阪に引っ越そう、と思った時
大阪の星ヶ丘にある、ソーイングテーブル、というカフェがきっかけだった、
と思いだす。
 
そのカフェがある星ヶ丘洋裁学校の庭に座っていた時
なんだかとても、そこに「いていい」という感じがあったんだった。
 
 
ソーイングテーブルコーヒーという名前をつけたのは
永井宏さんというアーティストで、永井さんの周りにある人々や文化に
惹かれていたことも思いだす。

永井さんがいらした逗子で、リーディングのイベントなんかもひらいていた
根本きこさんのお店、coya
あの場所を訪ねた時の、気持ちよさ。
 
 
草の上に、舟が渡っていく景色
 
台所のすみに、おちる影
 
 
私は私の好きなものを、思い出したよ。
 
私の好きなものが、私の居場所だったよ。
 
 
これをやりながらなら
娘を育てていくこともできそうな気がする。
 
私が私の場所にいるから
娘に寄りかからないで
彼女が彼女の道を歩むのを、見守っていける気がする。
 
夫とも一緒に、歩ける気がする。

夫が夫の道をいくのを眺めながら
私は私の道をいって
それぞれの道から、手を伸ばして、手を繋いで
歩いていける気がする。
 
 
娘の保育園を決めること
引越し先を決めること
 
自分が京都に住むという気持ちが固まらないまま
(まだどこか、もっと、くらすべき場所があるのではないかという思いを抱きながら)
足もとがかたまっていく感じがこわかった。


でも、今、急にそんな思いもなくなった。

私の居場所は、私の道の上にあって
私はずっと、私の居場所にいたんだ。
 
見えなくなっていただけで。


好きなことにふれていこう。

ことばのことを、やっていこう。



自由に
のびのびと。

2020年8月5日水曜日


夢というのは、本当に心のあらわれのようで

先日
参加している合唱グループの発表会のために会場へ向かうと
もう合唱が始まろうとしている、という夢を見た。
 
舞台袖からこっそりと舞台に出て
「入れて」と声をかけると
「自分の場所へ行って」と言われる。
 
けれど私は、自分がなんのパートなのかも
どこが自分の場所なのかもわからない。
 
歌が始まってしまったので、端っこにそのまま並ばせてもらって歌い始めるも
歌の歌詞もわからない。

そんな夢を見た。
 
 
自分の場所って、どこなんだろう。
 
 
 
でも
その夢を見て数日経ち、母に手伝ってもらって余裕が生まれてきた心で
今思うのは

夢の中の人はあたかも「わたしの場所」がある風に言って
そこへ行ってと言ったから
わたしは「わたしの場所」があるはずなのにわからない、と思い
わからない場所を、なんとか探さねば、と思い焦ったけれど

わからないものは、探すことができない。
 
わたしはそこで止まって
ただ「わからない」と言えば、きっとそれだけでよかったんだ、と思った。
 

 
 
 
先週末に夫と物件を見に行ってみて
「ここじゃない」ということが、わかった。
 
「ここじゃない」ということがわかった時に
 
夫とふたりで「ここ」と決めた今の家が、やっぱりとってもいい家だし
よくこんなにいい場所が見つかったなぁ、ということも、わかった。
 
 
今の家に出会う前も、
いろんな場所を見て歩いたんだった。
 
その時にも「ここじゃない」ということがいつも、わかった。
 
見つからないのは、見ている場所に、それがないから。
だから見えない時に、必死で目を凝らしても、仕方がない。
 
座っている椅子から立ち上がって、ふーっと背伸びでもして
息を深く吐いて、お茶でも飲むくらいしか
やることはない。
 
 
そのうちふっと、流れにあたったときに、ひゅ〜っと
運ばれていくんじゃないか。
 
 
 
今の家が見つかる前

私が大阪へ通いやすいように、ということで最初は家を探していた。
でも、大阪へも京都へも出やすい駅で降りて街を歩いても、
あんまりいい感じがやって来なくて

ある時、公園を散歩していた時にふっと、「緑の近くに住みたいな」と思い
それから、京都御所の近くはどうだろう、と思い
suumoの地図から検索できる機能を使って、今の家を見つけた。
 
 
近くの他の物件も、何件か見せてもらって
今の家は部屋は見られず、エントランスだけだったのに
夫も私も、なんだかいい、と思えて決まった。
 
 

そういう風にそうだ、やってくるんだ。
 
 

思考が正常化してきている。(涙)



さっき、娘と母とスーパーへ買い物へ行った帰り道
抱っこ紐で赤ちゃんをだいた女性とすれ違った。

母が
「あら、同じくらいの」と言ったので
その女性が
「何ヶ月ですか?」と聞いてくれて
「2ヶ月です」と答えると
「そしたら、ずいぶん大きい。6ヶ月です」と、自分のお子さんのことを教えてくれた。
それから
「頑張ってください」と言われて、また歩いていかれた。


「頑張ってください、と言われるってことは、これから楽になるのかな」
と母に言うと
「そうなんじゃない」と言われて
ちょっとほっとした。
 

 

2020年8月4日火曜日


母が娘を見てくれている間に
お宮参りのお祝いをくれた叔母に、お礼のお手紙を書いてポストに投函した。
 
娘の写真を少しまとめてプリントアウトして
手紙の中に添える。
 
同じものをもう1枚プリントして、実家で待ってくれている父にも送った。
 
写真を選び直して(夫が写っているものを多めにして)夫の母にも送る。
 
ずっと、やりたかったことができて
ふっと両手があいて
視界があかるくなった。
 
 
 
あぁ、今のうちに、考えられることを考え、
夫と話し合いが必要なことを、話し合い
自分の気持ちにも、触れよう。と思う。
 
 
母に「1ヶ月に1度来てほしい〜」と泣き言をいうと
「2ヶ月にいっぺんは来られるかな」と言われ、
2ヶ月にいっぺんでもかなり助かる!と思い心がふわっと浮き立つ。
 
 
近所に子育ての相談ができたり、助けてくれる人がほしい
と思って、児童館や子育てサロンの情報を調べたり
ドキドキしながら足を運んだり…
でもそれも、自分にとってはすこしハードルが高いこと。
 
楽になるため、と思いながら
がんばることがひとつ増えていた。

 
 
冷静になってきた頭で、ふっと
わたしって、どんな人なんだろうか
ということを思う。

近所に、子育てしている友だちが欲しい、と思っていたけれど
友だちはやっぱり、自然にできるものではないか
(娘が、公園で遊んだり、外遊びができるようになって遊びたい、と児童館へ行くようになったら自然とそこで出会った人と、話したりするようになるのではないか)
と思ったり
 
娘の友だちは娘の友だちで
私の友だちは、私の友だちなのでは、ということを思ったり
 
別に子育てをしている人じゃなくても
私はただ近所に、自分の友だちがいれば、それでいいんじゃないかと思ったり。
 
 
きゅ〜っとなっていて、「それしかない!」となっていた視界が、
ふわ〜っと広がっていく。


自然に友だちができるまで、2ヶ月に1度母がきてくれるなら
なんとかなるんじゃないかしら。
 
それにそうこうしている間に、娘も1歳になってしまう。


 
 
 
 
引越しに関しても
「もうここでは暮らせない…!早く引っ越せる家を見つけねば!」と
きゅ〜っとなっていた「しかない」思考がふわ〜っと剥がれていく。
 
 
 
週末に、母が娘をみてくれている間に
夫とふたりで物件を見に。

しっくりくる物件に出会わず。

でもその代わりに
今住んでいる家をあらためて「よく見つけたなぁ、こんないい家」と思えたり。
 
 
きっとふっと、次が見つかる時に
見つかるだろう、と、思えたり。
 
 
今、
こんな風に

ここ2ヶ月、きゅうぅぅぅ〜っとなっていたものが
ふわわ〜っと、開いている時間。
 


2020年8月1日土曜日


埼玉から母がきてくれた。

本当は、娘を連れて帰ってきたら、と夫が提案してくれて
わたしも、自分にはその時間が必要だと思って実家に連絡すると
 
今の状況で娘の長距離移動はあぶない、ということで
母がやってきてくれることに。
 
 
 
娘はよく笑うようになり、
意思を伝えるのも上手になって、ひとり遊びも始まった。
 
一緒にそとへ出かけられるようにもなったし
ほとんどの時間、ご機嫌に過ごしている。
 
 
ものすごく困ってる、ということもないと思っていたけれど
私はいつの間にか、いっぱいいっぱいになっていた。
 
 
自分のやりたいこと、は
お祝いのお返しを買う、お礼のお手紙を書く、
いただいた娘の服を片付ける、洗濯物をたたんでしまう、洗い物を片付ける…
ということがまず目の前にある「やりたいこと」で、
私自身のやりたいこと、はずーっとずっと、その向こうにあって、
なかなか触れない。
何が「やりたい」のかも、正直思い浮かばなくなった。
 
 
そして目の前にある「やりたいこと」も延々とできない。
 

家の中に「途中」が溢れていて
「今は仕方ない」「こういうものだ」と思おうとする私もいるけれど
「目に付くもの全部が中途半端で、ずっとそのままになっていて本当に泣きたい」
という私が、ついに出てきた。
 
 
一方で、娘に対してはどんどん、かわいい…という気持ちが溢れるようになってくる。
 
でもそれもまた、日中、誰とも分かち合えない。

大変だ、とか
悲しい、だとか
そういうことばかりじゃなくて

なんてかわいいんだ!と溢れる気持ちでも
心はいっぱいになる。
 
 
道を歩いていて、すれ違ったおばさんが
娘を見て「かわいいね」と言ってくれた時
 
私は体からプシュ〜っと空気が抜けたような気がして、すごく楽になった。
 
「かわいい」という思いを
一緒に持ってもらった感じがして。
 
 
もう、こんな風になっていたから
結構きわまってきていたのかもしれない。
 
 
 
母がきてくれて
娘をかわいがってくれて、娘がおしゃべりするのを喜んでくれて
一生懸命遊んでくれるのを見ていると
 
体が楽なのもあるけれど、心がすごく落ち着く。
 
 
日中、娘の様子を見ているのも
欲求のひとつひとつにこたえるのも
時にこたえられないのも
全部、自分ひとりなことは、ちょっとつらい。
 
 
 

鴨川で授乳をした時に、ふっと抜けたのは
景色が私も娘も包んでくれた感じがしたから。
 


今日は母が娘を抱いてくれて
日中、自分が眠りたいタイミングで、眠ることができた。
 
それだけで、ちょっと
遠ざかっていた自分が、少し近づいてきてくれた感じがする。