2020年5月26日火曜日




午後から雨が降り始める。
 
モビールを作る気力も出ず、ぼんやりと過ごす。
夫はギターを弾き始めた。
 
 
畳の部屋で眠っていると
夫が晩ご飯の支度を始める音が聞こえてくる。
 
ハンバーグを作りたいからパン粉買いに行こうかな
と言いにきたので
食パンを使えばいいよ、と話したらそうしたみたいだった。
 
 
そわそわしたり、ぼーっとしたりを行ったり来たりしているので
自分をととのえようと思って久しぶりに瞑想をする。
 
畳の上に寝転んで、イヤフォンをつけて
パソコンに入っている誘導瞑想の音声を流す。
 
声にしたがって、呼吸に意識を向けていると

胸とみぞ落ちの間に、小さな木片みたいな、かたいものを感じる。
 
なんとなくそれが
自分が陣痛がくるのを拒んでいる、小さなかたまりのように感じられた。

「ちょっと待って」と、置いている小さなブロック。
 
あるなぁ、と思いながら、ただ眺めてみる。
 
覚悟もできてないし
まだもうちょっと待って、という感覚。

その木片のようなものを眺めていると 
不意に「役割をいただいた」という言葉が思い浮かんできて
それからいくつかのイメージが浮かんできた。
 
 
お腹にいる人が出てきたら
私はその人の全部を受けとめていくことになり、生活の全部が変わるような
そんなイメージを持っていたけれど
 
私は私なんだ、という感覚がやってきた。
 
そして、お腹にいる人は、お腹にいる人で
その人が成長して、自分自身で歩いていけるようになるまで
必要ならばお世話をして、一緒に生活していく。
そんな役割をいただいたんだ。
と、スーッと腑に落ちた。
 
 
なんだ、そうか。
 
 
腑に落ちたら
木片は消えていた。
 

 

瞑想を終えてから、私も起き上がり
夫がハンバーグを作っている横で洗い物をしていたら
お腹がどんどん張ってきて、腰から下がずーんと重たくなる。
 
 
しばらくしたらまた同じ状態になったので
陣痛かもしれない、と思う。
 
ハンバーグを食べている間にも同じようにお腹が張ったり
腰回りが重たくなったり、その波がゆったりと、繰り返しやってきているので
これは来るかもしれない、と夫と話す。
 
 
とはいえまだまだ、感覚も広いので
食後、ライブハウスが配信しているラジオを最後まで聞いて
お風呂にゆっくり浸かり、入院用の荷物をもう一度確認した。


夫に緊張する?と聞かれたけれど
不思議なことにとても落ち着いている。
はやくこないかな、とも
まだもうすこし待って、とも思わなくなってる。
来るなら来い、という感じの気合もない。
 
ただ起こるままに、という心境。


お腹の人が出てきたら
私は変わるだろう。夫も変わるかもしれない。
 
でも、私は私。夫も夫だ。
 
それぞれが父と母から産まれながらも
自分自身のスペースを生きてきたように。
 
お腹からやってくる人も、その人その道をいく人。
 
それぞれの道を歩きながら
出会っていくことに変わりはない。
 
だから
変わるけど
変わらない。
 
 
私たちそれぞれの、宇宙を生きてる。生きていく。
 
 
 






















健診帰りの通り道。
緑がきれいだった。




























お昼ごはん
そうめんを茹でて冷や汁とアジフライ。
(埼玉の冷や汁はそうめんとか冷や麦で食べる)
ジンジャーエールも飲んだ。

散歩でセブンイレブンに寄った時に、冷凍のカットレモンを見つけた。
ジンジャーエールの素がちょっと甘めで
飲む時にレモンやライムを絞ったらいいなと思っていたので
見つけた瞬間これはいい!と思い買って帰る。

コップにカットレモンを一緒に入れて飲んだら
さっぱりして飲みやすくなったので大成功。































夜に陣痛はこなかったので、友人と父それぞれ宛ての荷物を発送。
友人へのモビールは、この鳥たちをテグスで繋げたもの。
新生児のうちは白と黒が認識しやすいとのことなので、白黒で作ってみた。
喜んでくれたらいいな。
 
 
 
いつ陣痛がくるんだろうとそわそわ。
自分の家用にもモビールを作ろうと思い、そわそわしながら手を動かすも
星と鳥1羽で集中力が切れる。

ひとまず、その2つだけテグスで結んでかけられるようにした。

自分の家にも作りたいけれど、
同じものを作るには飽きてしまって手が動かない。
どうしたものか。
 
 






蒸し暑くなってきたので、扇風機を出す。
窓を開けて扇風機を回すと、部屋の空気が動いて過ごしやすくなる。
 
 
出産予定日がやってきた。
2日前くらいから体調が変わって、
床に座ることや前屈みの体勢をとることがしんどくなってきた。
お腹の痛み方も変わってきている。

1週間ごとになっていた健診も数日ごとになったのでまた産院へ。
行きは今日もタクシー。
車窓から緑を眺めながらふと思ったこと。(タクシーの運転手さんが親切だったから)

コロナのことで、買い占めだったり
感染者への非難だったりがある、と報道で伝えられた。
きっと実際にそれは起こっている。(スーパーの陳列棚が空っぽになったように)
そんな報道に触れていると、
心ない人がたくさんいるようなイメージが心にかかるけれど
そうではなくて
「人は基本的に優しい」という初期設定で、生きよう。ということ。

自分が暮らしていたら、
ふとした場面でも思いやりに触れていることの方が多いから。

もしその初期設定で暮らして、時々
他者との間で驚くようなことがあったり、傷つくようなことがあるとしたら
その時は、驚き、傷つけばいい。
そして、こういうこともあったな、と思って、また暮らしていけばいい。



 
健診へ行くと、赤ちゃんが下がってきていて
子宮口も少し開き始めているとのこと。
先生から「今週中に産む!」と言われたので、今週中に出産となりそう。
 
お会計の時に受付で
「何かあればいつでもご連絡くださいね」と言ってもらう。
 
帰り道、スマホから自分の実家と義母に報告する。
途中、パン屋さんへ立ち寄って食パンとバゲットとチョコデニッシュを買う。

帰宅してから、休みで自宅にいる夫と昼食。
買ってきたバゲットで、レタスとウインナーのバゲットサンド。
それから数日前に作ったジンジャーエールの素でジンジャーエールを作って飲む。
私はチョコデニッシュも食べる。
バゲットは皮がかたく、中はしっとりしていて美味しかった。
 
 
いよいよかぁ〜という会話をして
いつ陣痛がきてもいいように、作りかけのモビールを完成させることに。
(4月に出産した友人へのお祝いでモビールを作りかけていた)
必要な材料があったので買いに行くというと、夫も行くというので一緒に出かける。
 
久しぶりにひと駅先の少し大きなショッピングモールに行き
手芸屋さんで材料を買い足す。
それから、父の誕生日が近いのでお祝いを探した。
綺麗な色のポロシャツを見つけたので、それを贈ることに。
 
 
モビールを完成させて包装し
ポロシャツも手紙を添えて、配送できるように梱包した。

もし夜のうちに陣痛がきて入院しても
後から夫に送ってもらえるように住所のメモも添えて玄関に置く。
何もなければ明日発送しにいこう。
 
 
 
それにしても
私がお菓子を食べたり、ごはんを食べたり、眠っている間に
(ほぼ、食べて眠ってるだけ)
着々と赤ちゃんは準備をしているんだ、と思ったら
なんだか感動して泣けてしまった。
 
頑張るよ、まだ会ったことはないけれど
君がそこまでして、やってくるんだから。

そんな気持ちになる。
 






 

2020年5月24日日曜日



夜中、左足がつる。
足指を反り返して治そうとするも
お腹が大きくて手が届かない。
 
なんだかお腹もちょっと痛い。
陣痛かな?と思うけど、眠れるうちは寝ておこうと思って
そのまま眠ると
今度は右足がつった。
 
 
祖母が足がつる、と話していた時に
スポーツ飲料を飲むことをお医者さんに勧められていたので
朝起きてから、自動販売機でポカリスウェットを買って飲んだ。
 
そして、本番の陣痛中に足がつったら耐えられない
と思って、入院バッグの中にもポカリを入れる。
 
両足つった昨夜は辛かったけれど 
本番対策できたことには少しほっとする。
 
 

朝起きて、お腹を見ると
また下の方にふくらみが下がっている。
夜起きた時のお腹のところのもぞもぞとした違和感
あれはお腹の人が下におりていたのだな、と思い
「おつかれさま」と声をかける。

それから
「生まれてきたら楽しいよ」と声をかけたら
気持ちがすーっと立ち上がる感じがした。


未知のお産に心が向いて、そわそわしていたけど
なんとなく自然にふっと、産まれたその先に視線がうつった感じがあった。
そうするとお産も、目の前の関門から
通り道に変わる。
通過できるかどうかわからない、というところから
通過できるもの、という意識にうつってる。
 
あぁ、ちょっと先を、見たらいいんだな
そんな風に思った。
 
見よう見よう、というわけでもなくて
それが見えるところまできた、ということでもあるのかも。
 

少し先を見ると視界が広がる。
 
視界が広がると、光が入ってくる。


2020年5月23日土曜日

 
 
 
 
思い立って
少し遠いスーパーにある100円ショップまで出かける。
 
100円ショップでは、重ねられるワイヤーの整理棚を買った。
靴箱におさまらずに玄関に出しっぱなしになっている数足の靴を
片付けるために。
 
アマゾンで注文していた収納箱もちょうど今日届いたので
段ボールに詰めたままになっていたものや
しまいどころなく棚に積まれていたものを
その箱にしまう。
 
部屋に段ボールがあるのは倉庫みたいでなんだか悲しい。
それを片付けられたので、ちょっとホッとした。
 
 
スーパーへ向かう途中、神社に立ち寄って
その神社で前に買ったお守りをお返ししてきた。

買ってから少し時間が経っていて、
もう充分に守っていただいた気がしていたから。
お詣りしてお礼をお伝えしたら、気持ちが落ち着いた。
 
 
先日も思い立って
フライパンやお鍋の底の焦げを金だわしで落としたり
読み返さないと思った本を段ボールに詰めて古本屋さんに買取してもらったり
ずっと旧姓のままだったクレジットカードの名義変更をしたりと
 
なんだか自然と体が
片付けたり、ととのえたり、そんな方向に向かっている。
 
 
 
 
出産前に
気になるところをととのえたいという私の動きな気もするけど
計画的というよりはもっと、体が動いてしまう、という感じなのが不思議。
 
ピカピカの新しい魂の人がやってくるのに合わせて
場自体がととのおうとしていて、私はそれに自然と動かされているような
こっちの方がなんだかしっくりくるから
そういうことかな、と思ってる。
 
新しい人がやってくるって
それくらいひかりも影響も、強いことだと思えるから。
 
 
 
もさっとしてきた、後ろ髪も切った。
美容院へ行くのを控えていて、自分で後ろ髪を切るのは3度目になる。
ためらいもなくなった。
 
また美容院で綺麗にととのえてもらいたい気持ちもある。
同時に
自分で自分の髪を切ることができる、ってわかって(たとえ上手ではなくとも)
心がすごく、自由になった気がする。

襟足の伸びた髪の毛が気になった時
誰かに切ってもらえるまで、じりじりと待たなくてもいい。
右手にハサミを持って、自分で切ることができる。
 


 
朝、胃の調子が悪いと夫が言っていたので
今晩はうどんかな、と思っていたら
「今から帰りまーす。うどんじゃない物食べれそうです」
と夫からラインでメッセージが入ったので
ひとまずお米を炊いた夕方。

昨日、美味しそうなズッキーニを買っていたので
ズッキーニとじゃがいもと鶏肉で炒め物を作った。

ベランダの鉢植えのローズマリーが
この春から急に元気になったので、ローズマリーもちょっと分けてもらったら
おしゃれな味になった。
ズッキーニは瑞々しくて、やっぱりとても美味しかった。

暑いのでお味噌汁は作らずに
小鉢をちょこちょこと足して、軽めのご飯。

ご飯のあと
今日片付けたところを見回り眺めて
満足感を味わい、過ごす。


夫が村上ラジオを聴き始め、村上春樹の喋り声が聞こえてくる。
明るくて、思いやりのある喋り声。
 
様々な場所で、今の状況の中、暮らしている人たちに向けて
あたたかな言葉を置き、
そしてシンプルで優しい選曲をしていく。
 
「大きな変化について話すのは大変だから
小さな変化について話します」というようなことを言って
最近、紙と万年筆を出して、手書きで文字を書いている、ということを話されていた。
 
懐かしい、って言っていたかな。
 
 
私に起こった小さな変化。

よく歩くようになった。
髪を自分で切った。
パンを作り始めた。
 
こんなところがすぐに思い浮かぶ。
 
小さければ、まだまだありそう。
 
ちょっとリストアップしてみようかな。
 
こんな風に変化を書き出すと、3つ並んだだけでも
報道の深刻さとは裏腹に
(もちろん、事実として確かに
悲しい思いをされている方や大変な状況を強いられている方がいらっしゃるということは
念頭に置きながら)
自分の日々には、豊かなことが起こっている感じがしてくる。
 

不思議と。
 






2020年5月21日木曜日


朝から産院へ健診へ。
トコトコと歩いて出かけていたけれど
だいぶお腹も大きくなってきたのもあって、行きはタクシー。
 
ちょっとずつ開けられた窓
運転席と後部座席のあいだにビニールのシート
 
窓の隙間から入る空気が気持ちよかった。
 
運転手さんが静かな運転のひとだったから
落ち着いた気持ち。
 
産院の前でお礼を言って降りる。
 
 
 
赤ちゃんの状態がわかるノンストレステスト、という検査を今回も受ける。
30分ほどの間に、赤ちゃんはたくさん動いていて
看護師さんからもお医者さんからも「元気、元気」と言われてホッとした。
よかった。
 
内診もしてもらったけれど、先生からは「まだやなぁ」と言われる。
 
 
急に破水することもあると聞いたから
布団のシーツの下にビニールシートを引いたり
出歩くカバンの中に大きめのタオルを入れたりし始めてそわそわしてるけど
「まだ」と聞くと、まだかぁ…と思ってちょっと気が抜けるような
残念なような気持ちになる。
 
 
 
もう、産後の準備もととのっているし
妊娠していることにも慣れてきて、
時々、妊娠していることを忘れている。

えっさえっさと重たいお腹を持ちながら。

 
海風と陸風が変わる、凪の状態にいるような
そんな感じがする。無風。
 
 
 
妊娠し始めた頃は、自分の体と思っていたところに、
とつぜん別の生命が育ち始めて
その違和感にどきどきしていた。
 
今はまた、私にとって、この体が「自分の体」として馴染み始めている。

それは、私の体の一部を使って育っていた生命が、
すっかり自立できるだけの、別個体になっているということなんだと思う。
 
1つの船が2人乗りになっていた状態から
それぞれの船にまた、別れている。
 
わたしはまた、1人乗りになろうとしている。

彼女は彼女で、1つの船に乗った。
 
 
そう思うと少し寂しい。
 
でも、だけど、
わたしたちは、別々になるから
また 会えるんだ。

そう気がついた。
 
会うために別れたんだ。そんな風にも思える。
 
だから船出の時が、私はとても楽しみだよ。


産院の帰りに、
いつも珈琲豆を買っていた、休業していた喫茶店が開いたので寄って
珈琲豆を400グラム買う。
 
私は豆だけ包んでもらったけれど
いつもの喫茶店の様子。
お客さんは少ないけれど、それでも珈琲と食事を楽しんでいる人たちがいて
いつもの店員さんが働いている。
 
なんだかじんわりと胸があたたかくなった。
嬉しい。
 
 
 
 
こんなことがあって
あたりまえにあった景色が、またその姿を見せてくれると嬉しい。
でも、また同じような社会になるなら、それは嫌だなとはっきりと思う。
 
どんな風に生きたいか
どうあることが、より自然なのか
自分にとって、何が喜びで
周囲の人と、何を分かち合い暮らしたいか
 
内側に向けて問いかけ続けたいし
そこから出てきたところを歩いていきたい。
 
 
 
 
予定日はもう間もなくだけど
先生の内診では「まだやなぁ」とのこと。
 
凪の状態でちょっと持て余しているので
子守唄を覚えることにする。

 
はじめの1曲めは、「星めぐりの歌」
 
繰り返し歌っているあいだに
星空に心が寄っていき
アンドロメダ星雲を画像検索してみたり
子ぐまのひたいの上の、ほしのめぐりのめやす…ということは
北極星かな?と調べてみたり。
 
実際の星空ではないけれど
景色が見えると、また言葉が近づいてきて

歌と景色の往来が楽しくなる。
 
言葉が近づくと体が開いて
あたまで考えなくても
声が出てくるようになる。
 





 
 
 

2020年5月20日水曜日



はじめて訪ねた喫茶店

看板もなく、名前もない
 
引き戸に麻の白いのれんがかかっている
 

夫と一緒に訪ねてみた

長い長い土間
立派な黒い梁

古い古い建物を、綺麗に改装してある


スイカジュースとクリームあんみつを頼み
夫はアイスコーヒーとファーブルトンというお菓子を頼んだ

「スイカがあまり甘くないから、100円引きします」と
正直そうな店主さんが声をかけてくれる

「私、あんみつも頼むので、甘過ぎなくていいかも。100円引きしなくても」
と思って、そう言ったけれど
100円引きしてくれた。
 
でも、だけど、出てきたスイカジュースは
本当に美味しかった。
 
クリームあんみつも、とってもとっても
美味しかった。
 
夫に一口分けてもらったファーブルトンも、とってもとっても、美味しい。


すごい、バランスで
美味しいのだった。
 
(鉛筆の細い細い先で、とん、と描いた
小さな ”点” に焦点がスッとあってるような
とても絶妙で、繊細な、ここ、というところに
味が決まっている)
 
 
建物の空気も、光と影がのびて、息がとてもしやすい。
 
 
店主のひとは、どこも気取ったところがなくて
「パタパタとしてすみません」なんて言いながら
接客している。
 
 
そんな中で

水を入れてくれた小さなうすはりのコップも
テーブルの上に重ねてある本も
 
ひとつひとつ
静かでいながら、のびのびとしてる。

ちゃんと選ばれて、そこにあるんだと思った。
 
 
 
美味しさや
お店の空気に感動してしまって
 
いつ出産が始まるかわからないから、というのを口実にして
2日連続で訪ねてしまった。
 
 
 
近所、と伝えると
また、と言ってもらえたことが嬉しくて
 
赤子が生まれたら
夫と交互に子守して、
交互にやってきます
 
と、お伝えしたけれど
そんな風にしてまた、
時々訪ねられたらいいな。
 
そして、やってきた人が
あのお店の空間で、椅子に座って
出てきたものを、美味しい、と楽しめるようになった時には
一緒に行けたらいいな。
 
 
甘いものも食べたし
夫と一緒なら安心なので
喫茶店を訪ねた2日間は、たくさん歩いた。
 
緑が深まって、外はとても綺麗。
家々の庭に、バラが見事に咲いてるのを、
「バラ」と指差しては眺めて歩く。
 
 
 
いよいよ出産間近なので
「まだまだかな」と思いつつも
急に破水などすることもあるらしいので、ちょっとそわそわとしている日々。
 
でも先日、定期的な腹痛がやってきて「陣痛かも」と思った経験があって
その時、入院バッグの中身をもう一度確認できたし
急にナーバスになってきて気が立つ自分の姿も見たので
(試合前の選手みたいなイメージ。イヤフォンを耳に詰めて、集中する感じ)
それがいい感じで、予行練習になっている気がする。
ナーバスになっていくのは意外だったけれど、そうもなるのかも。
と心の準備ができた。

お腹の中で、赤ちゃんが動くたび
膀胱がキューっと刺激される感じがして
だんだん下腹部に痛みや違和感がうつってきている。


いまだにお腹にもうひとりの命があるだなんて不思議だ。
 
今は、
会えるのが楽しみな気持ちと
この不思議な体験が終わると思うと少し寂しい気持ちと
また、ひとりの体になるのが楽しみな気持ち
 
そんな色々が
やってきては流れていく。
そんな最中にあります。


 

2020年5月16日土曜日


昨日の夕方から降り始めた雨が
今朝になってもまだ降っている。
 
 
この頃は、本当によく眠っている。
 
夜、22時〜23時頃に眠ると
2時か3時頃に目が覚めて
そこから1時間から数時間寝付けず起きていることが多く

また明け方に眠くなってきて気づくと寝ついている。
 
 
昼間、散歩に出かけて
帰ってくると疲れて横になりたくなるので
そこで昼寝もする。
 
 
最近、何をしてる?と尋ねられたとして
真っ先に「よく寝てる」と返答が思い浮かぶ。


母や、
子育てをしている友人に話すと
「眠れなくなるからね、今のうちに寝ておいたらいい」と
言われたので、寝てばかりいて、とちょっと自分を責めていたのも解消されて
本当に眠ってばかり。
 
 
子育てしている人たちは、出産後の景色を知っているから
「今のうちに」という言葉を私にかけてくれる。
 
 
それで、私も、そのように今に向かおうと思ったりする。
 
 
例えばさっき、
夫よりも早く目が覚めて
 
布団に横になったままの私がいて
ちょっと開いた窓から静かな雨音がして
夫は横ですやすや眠っていて
薄い毛布の感触も気持ちよかった。
 
「こんな風に、静かな時間も、あと少しなのかもしれない」
という思いが不意にやってきて
 
そこから私は
「もうすぐなくなるかもしれないから」という意識を持って
その時間を味わおうと思った。
 
 
ところが、
「もうすぐなくなるかもしれないから」と思った途端に
味わっていたものが遠ざかってしまう。
 
不意に香ってきた花の香りを
かごうと思って鼻で匂いを吸い込もうとすると
香りを全く感じられなくなる時みたいに。
 
 
 
そうして思った。
 
多分、この日々は
赤ちゃんが産まれた途端に、変わっていくんだろう。
 
それは、頭では理解できる気もする。
 
そして、産後の景色を知っている人たちは、そう教えてくれる。
 
でも
 
今の私には、やっぱり
やっぱり

「まだ、ここにはない景色」

なんだ。
 
「知らない」景色だし、知ることも、経験することも
今はできない。
 
 
だから
「もうすぐなくなるかもしれないから」と意識を置いた途端に
実感のない冠を、現在にかぶせてしまうことになり
 
今ある景色が、遠ざかっていってしまう。
 
 
 
そんな気がする。
 
 
実感のない「なくすこと」を前提にして
今を慈しむことは、できない。
 
と気づいた。
 
 
それでも今朝、目が覚めて
穏やかなひとときを「穏やかだなぁ」と味わっている自分はいる。


だから「もうすぐなくなるかもしれないから」という冠は消して
 
今感じていることを
ひとつひとつ、そのまま感じてみることにした。
 
 
雨音が聞こえてくる
しっとり涼しい風が静かに渡ってる
薄がけの毛布が肩までかぶさっている
その感触がとても心地いい
夫は横で深く眠っている
お腹に手を当てると、お腹は大きい
胎動はなく、静か
肩に少し力が入ってる
それを抜くことができる
 
そう感じていくと
今朝、自分がいる景色の広がりが、じんと広がってくる。


予定日まで、いよいよ10日をきってる。
 
 
いろんな人が教えてくれたように
今こうしてたっぷり好きなまま眠れる時間も
ゆっくりひとりお風呂に入れる時間も
しばらく、なくなるのかもしれない。
 
もしかしたら産後、「あれをしとけばよかった!」って
たくさん思うかもしれない。
 
そうかもしれないけど
それは産後の私の受けとる景色で
今の私は、感じることができない。
 
 
 
「できなくなるかもしれないから」とか
「もうなくなるかもしれないから」じゃなくて
 
 
ただ、今にいるから
今の時間を。
 
 
そう思った今朝でした。 memo.

2020年5月11日月曜日




雨があがり 曇り空も過ぎて
よく晴れたので
スニーカーを洗う
 
黒いスニーカーなのに
土手を歩いているうちに土埃でずいぶん汚れてしまっていた
 
ぬるま湯につけ 洗剤で洗うと
みるみる汚れが落ちて
もとの黒が現れてきたので驚く
 
もともとの黒も褪せてしまっているのではと思っていたけれど
生きてた。
 
 
 
お日様の力が強くて
ベランダにほしていたらみるみる乾いていくのも嬉しい。
 
 
 
昨日は、夫が注文していたアンプとスピーカーが家に届いた。

夫は今までのスピーカーを片付けて、
掃除機を持ってきて棚の埃を掃除したりしながら
一生懸命設置していた。

居間の窓辺の、テレビの下に
アンプとスピーカーが並ぶ。
 
数日前に、アンプとスピーカーを調べながら
「こういう風に配置したらいいと思うんだ」と言っていた通りになっていく。
 
セッティングが終わって、音を出してみると
すごく繊細で、いい音が響く。
 
今まで、私の壊れかけの無印良品の壁掛けプレイヤーでCDを流していたのと
全然、違う。こぼれていた音たちが聞こえてくる。

今までの、夫が友人からもらった低音の強いスピーカーとも、また違う。
もっと川の流れみたいに、冷たいところ、上澄みのところ、流れの大きなところ
層のそれぞれが生きたまま繊細に同時に流れてくる。

体に瑞々しく音楽が流れ込んでくる。
 
夫は左右に置いたスピーカーの間に座って、嬉しそうにいろんな音楽をかけている。

ずっと「いい音で音楽が聴きたい」と言っていたのだった。
 
子どものように素直に喜んでいる夫の姿をみて、こちらまで嬉しくなってくる。
 
 
 
今の家に引っ越してきてから
なんとなく居間には私が持ってきたものばかりあるような気がしてた。
 
ふたりで一緒に選んだテーブルや椅子もあるけれど

棚に使っているりんご箱は私がひとり暮らしの時から使っているもので
私が好きな小物も、好きに並べさせてもらっていた。
 
そこに今度は赤ちゃんのものがたくさんやってきて
スペースの一角は、あたらしい人のための空間になってきていた。
 
 
そんな空間に、夫がアンプとスピーカーをせっせと
自分が好きなようにセッティングして
夫がつくった空間がはっきりとそこに生まれた。

居間のバランスが、すごくよくなった気がする。

それぞれのものが
きちんとそこ、ここに存在して

それぞれの顔が見えるというか

3人が暮らす家に、あらためて変化している感じがする。
 
 
 
居間の変化に感化されて
私は自分の衣装ケースの中を整理した。
 
繰り返し整理しているけれど
ここまでお腹が大きくなってきてからは初めて。

あらためて1着1着手にとり
これからの暮らしを含んだ今の感覚で触れていくと
手もとに残るものが少しだけ変わる。

もう着ないな、着ないだろうな、と思った服を、袋に詰めて
これからも着る服、着たい服を、1着1着たたみ直して
ケースに重ね直した。
 
 
髪の毛を切るみたいに
枝葉を整理するようにして
 
あたらしさに移行していく。
 
 
 

 
 

 

 

2020年5月7日木曜日



今日は健診へ。
産院まで歩いて出かける。

よく晴れていて、川まで出ると
茂った緑がバーっと目に入ってくる。
山も青々と勢いがあって、とても近く感じられる。

土手から細い路地に入り
のんびりと歩み進める。

道の向かいからやってくる人が2人並んで歩いていて、
すれ違う時にもそのまま前進してくるから
私が歩道から降りる。
 
時々あるこの場面で、
私は心の中でものすごく怒ってる。

今日も歩道から降りながら、イライラっとした。
 
自分だったら、1列になって
前からくる人も、自分たちも、歩道を降りずに歩けるようにする。
 
それを当たり前と思っているから
そうじゃない時に、自分で道を譲っておきながら
心が逆立ってる。

何度も同じシチュエーションがあり
そのたび怒りが湧くので
何なんだろう、と自分を見つめてみる。
 
結局わたしは、
自分を慮って欲しいのだ。
 
自分のことを考慮してほしい、と思ってる。
 
それって、あたりまえにある気持ちだなとも思う。
 
でも、考慮するかしないかは、他者の判断で
自分の裁量ではない。
 
こんな場面のたびに、イライラするのも嫌だなぁと思って
相手が譲ってくれるかどうかではなくて
自分自身に基準を戻せばいいのかな、と考える。
 
 
細い路地を通る。
自分は歩道を歩きたい。
前から人がきたら、その人とお互いすれ違えるようにして歩きたい。
2人がすれ違える道幅なのに、相手が並んで進んでくるままに、
自分が歩道を降りるのは嫌だ。
 
書きながら、自分の小ささを感じてちょっと笑えてくる。
 
でも、嫌なものは嫌。
 
2人で歩いてきている方のひとが
1列になって、お互いがすれ違えるようにして欲しい。

(本当に、書きながら、ちょっと可笑しくなってくる。
小学生の女の子が、ムキになっているようで。
でも、そう思っているんだ)
 
自分は道の真ん中を歩くわけではなく
ひとり分のスペースを歩き、
向かいからきた人たちも、ひとり分のスペースを進んでくれたらいいな。
 
今度、並んで歩く人たちと細い路地ですれ違う時には
自分は車道側ではなくて、壁側に寄って
そのまままっすぐ進んでみよう。
 
そしてそもそも
自分自身のくせで
自分がどうしたいかよりも先に、状況が入ってきて
自分自身は考慮せずに
他者に全面的に譲る、という選択肢をすぐさまとっていることが多い。
 
だから相手からしたら、自分たちが気づくよりも先に
道を譲られ
知らぬ間に、怒られている、ということが起こっているのでは。

そして書きながら気づいた。
自分を考慮していないのは、私自身ではありませんか。
 
なんと

私は私自身が自分を慮らないところを
他者に慮ってくれ、と求めているんだ。


あわわ。 

 




アルケミストでいったら
私は、私の心の声に
もっと耳を傾ける必要があるようだ。
 
 
 

 
 
健診では採血と内診と
それから赤ちゃんが元気かどうか診る検査があった。
 
ここのところ、体調に変化があったり
今まで感じなかった痛みなどもあるので
もしやもう間もなく?と思っていたけれど
先生からはまだまだ産まれる兆候はない、とのことだった。
 
そして赤ちゃんが元気かどうかを診る
ノンストレステスト、という検査では
赤ちゃんが起きている必要があるものの、胎動がない。
「多分寝てます」と看護師さんに言うと
「あらー、起きて〜」と看護師さんがお腹をゆっさゆっさと揺すった。
揺すられても、まだ寝てる。

なかなか、マイペース。


 

2020年5月6日水曜日


襟足の髪の毛がもっさりとしてきたので
お風呂場で鏡を見ながらサクサクと切った。
 
首もとが軽くなって
気持ちもすっきりとした。

 
おとといは、夫と土手を散歩した。
10分くらいごとにベンチで休憩しながら
ゆっくりゆっくり歩いたので、3時間半くらいの長い散歩になった。
 
折り返し地点は、土手から出たところにある本屋さん。
そこへ行く途中のクッキー屋さんのソフトクリームが美味しいんだ、と夫が言ったので
楽しみにお店を訪ねたけれど、今年はソフトクリームはやらないとのことだった。
クッキーは販売されていたので、丹波黒豆きなこのクッキーを買う。
 
本屋さんでは2年半ぶりくらいの知人とばったり再会する。
また会えたらいいな、と思っていた人だったから嬉しかった。
お互いマスク越しだけれど、目から相手が元気なことが伝わってくる。
偶然の再会、ひととき店先で近況を交わす。
そしてさらっと、別れる。
また会える、と思っているから、別れられる。
 
 
欲しかった本を見つけて買い物をして本屋を出る。
夫は土手に出る前に、酒屋さんでビールを買った。
私は冷たいコーラを買って、飲みながら復路を辿っていく。
 
 
新緑が鮮やかで、遠くの山々も青々としている。
川面に青空と白い雲が映り込んでいる。

先日、友人が「田舎は田んぼに水をはる季節だから」と言っていた言葉を思い出す。
水がはられた田んぼにも、きっと空がこうして映っているだろうな。
 
 
出産予定日を人にいうたび
「いい季節に産まれてくるね」と言ってもらってきたことを
本当にそうだなぁと、景色を見ながら思い出す。
 
夫は何枚も、景色の写真を撮っていた。




足の付け根が痛くなったり、お腹がはったりするので
また10分おきくらいにベンチに腰掛けながら進む。
途中でさっき買ったクッキーを食べたら、カリッと軽く
きなこの風味もしっかりして、美味しかった。
 
 

その日歩きすぎたのか、翌日はパワーが出なかった。
それでずっと眠ったり、部屋着のままだらだらと過ごす。
体中がむくんでパンパンになっている。
1日1日、体調が違う。


 
パウロコエーリョのアルケミストが
不意に読みたくなり、kindleでダウンロードして
寝転がりながら読み進めた。
 
ずっと前に読んだことがあり、話の筋はだいたい覚えていたけれど
細かなところ、智慧について語られるセリフはひとつひとつ新鮮に入ってきた。
 
 
特に面白かったのは

主人公がオアシスで運命の女性に出会うも
主人公には人生の目的があるために一度彼女と離れ、また砂漠に出ていくところ。
 
砂漠を進みながら数日
心のなかにいろんな思いが湧き出てくる。
自分はオアシスに留まるべきだったのではないか、とか
何があるかわからない先へ進む恐怖心とか。
 
主人公を導く錬金術師は「心の声を聞く必要がある」と言い
主人公はずっと、浮かんでくる様々な思いを聞き続ける。
 
心は絶え間なく喋り続ける。
 
そうして心の声を聞いていくと、ある時ふと
主人公の思いが、過去に置いてきたものや、未来への不安に揺れることを終え
今におさまる時がきて

その時「こわがる必要はない、と心に話してあげなさい」と
錬金術師に言われ、主人公が自分の心に向かってそのように伝えると
そこから心が静かになり、黙り始める。
 
という場面。
 

 

 
心って、エゴのことなのかな?と思うけれど
あらゆる言葉を生み出し、自分を変化から守ろう
安全なところに留めようと働く。
それを無視して抑え込むわけでもなく
言葉に従い、振り回されるのでもなく
湧き上がる声を聞きながら過ごし
その先の静けさに出会うということ。
 
 
在るものに触れながら本質を生きるって、
きっとこういう在り方なんだろうな、と思い
心に残った。
 
 
そして心の声が全て聞き届けられ
心に安穏がやってきた時
心は本当の言葉を伝えてくれ、
よき相談相手になってくれる、ということも
その先の場面で描かれている。

心はもう怖がる必要がない。

恐怖心もまた、主人公がそのまま聞いてくれることを知っているから。
だから
本質を生きようと未知を歩む主人公を、恐れから留まらせる必要ももうない。


 
 
出産予定日まであと20日くらい。

体調は日によって違うけれど
つわりもないし、胎動も落ち着いている。

赤ちゃんがいる位置もだいぶ下がってきたので
前は胸のすぐ下がぷっくらと膨らんで胃が圧迫されて
少し苦しかったけれど、今はその苦しさもない。
 
不思議と穏やかな日々。

赤ちゃん用品も産前に揃えられるものは揃え終え
特に急いでやることもない。


なので今、私はかなり油断している。
もう待つのみ、という感じで。



2020年5月3日日曜日



























今朝は朝食に焼きたてパンを作ろうと思い
フライパンでできる、ちぎりパンに挑戦。
ちょっと焦げました。

でも、ふわふわとしてほんのり甘く、美味しかった。
焦げた焼き目もカリッとして美味しい。
 
 
明日の朝食はピザを焼いてみる。


2020年5月2日土曜日

臨月に入って、健診が2週間に1度から
1週間毎になった。
 

午前中に産院に行くと珍しく混んでいて
(あとから夫に、連休中だからでは?と言われる。そうかも)
いつもは10分ほどの待ち時間が、1時間とすこし待つ。
 
その間、本を読んだり
スマホをいじったり、どちらにも飽きて
目を閉じて過ごしたりした。
待合室の窓は開かれていて
肩越しに外の風が入ってきて、気持ちが良かった。

(待合室に置かれていた雑誌類は、多分コロナ対策で全部はずされていた。
私が持っていった本はケン・リュウの「紙の動物園」
情緒的なSFって面白い)


健診してくれたのはいつもの院長先生ではなく
娘さんの先生。
エコーのあて方が違くて面白い。

診察台に横になって、お腹をぺろんとめくったところに
エコーの滑りが良くなるようになのか
ジェル状の液体をぴょろぴょろっとかけて
(あとで看護師さんが温タオルで拭き取ってくれる)
そこにカメラをあてていくのだけれど

院長先生はポイント、ポイント、という感じでカメラをあてていく。
娘さん先生は、つつーとお腹の上でカメラを滑らせながら、
見たいところにあてていく感じだった。

画面にうつった赤ちゃんの体の映し方や
説明の言葉も、同じところを映しながらもやっぱりそれぞれ違っていて
その違いが温かさとして感じられた。

ひとに診ていただいているんだなぁ、と。

どちらの先生も、丁寧に診てくださる。
 
 
いつも大体赤ちゃんは下を向いているか
手を顔の前に重ねていて、今までの健診でほとんど顔が見えたことがないのだけれど
昨日は目を閉じている顔が割とはっきりと見えた。

先生がエコー写真を取ってくれた時にはまた影ができてしまったので
夫に見せられた写真にはほとんど写っていなかったけれど。



平均より体は小さめ。
先週より少し大きくなっていた。
 
 
健診を終えて
帰り道をたどりながら、エコーで見えた赤ちゃんの顔を思い出す。
そして不意に「他人なんだなぁ」という思いが湧いた。
 
 
今ここにいる人は、他人なんだ。
 
私の体を、通り道にしていくけれど。
 
 
 
どんな人か、わからないけれど
仲良くやろう、という気持ち。

そして
この人は、この人のところを
生きていくんだ、ということ。
 
 
 
たまたまの縁、なんだ。
 
 
誰との出会いも、そうであるように。
 
 
たまたまの縁。
だから、ありがたい。
 

 
 
 

家に帰ってから、今度はシナモンロールを仕込む。
強力粉はまだまだあるので
しばらく朝食のパン作りをしてみるつもり。
 
 
発酵していくパン種に触れると
やわらかくて気持ちがいい。
 
 

 




2020年5月1日金曜日



昨日はパン作りに初挑戦した。
室温でゆっくり発酵させる。
 
時々、ボウルの中のタネを確認しにいくと
ゆっくりと膨らんで気泡ができていて
あぁ、パンって、呼吸をしているんだなぁ
生きているんだなぁ、と感じて、
不思議とボウルの中のタネが愛しくなった。
 
 
出来上がった素朴なパン。
ふっくら、皮はパリッとして、美味しい。
 
手間はほとんどかからない。
時間が作ってくれる。
 
 
 
最近、コウケンテツさんのYoutube動画をよく見ていて
そこから今晩の夕飯はタンドリーチキンを作ってみた。

材料にカレー粉、とあって
買いに行かねば、と思うも
昨年から夫が家でスパイスカレーを作ってくれるので
もしかして、と思って
クックパッドで調べたら、家にあったスパイスでカレー粉もできて嬉しい。
 
それとはまた別にヨーグルトが必要だったので
近くのセブンイレブンまで、散歩がてらゆっくり歩いて出かける。
 
今日はお腹がはりやすかったので
ますますゆっくりゆっくり歩く。時々立ち止まったりもしながら。
行って帰っての往復で、時間をみたら40分かかっていた。
 
途中、先日よりも葉っぱの広がった新緑が鮮やか。
ツツジも満開だ。

本当に牛歩のような歩み。
それでも、焦る気持ちは湧かないし
自分のことを遅いとも思わない。

今の私には
外側に、合わせる時刻がないからかもしれない。

ただ、楽に歩ける歩幅で、歩いているだけ。





歩きながら、昨晩、夫がパソコンでずっと作業をしていたことを思い出す。
「何してるの?」と聞くと
「仕事のマニュアルを作ってる」と夫は言った。
その前に、立ち会い出産の話をしていたので
「もしかして、お産で仕事を休んだ時のため?」と聞いたら
「そう」とのことだった。
 
聞かなかったら、きっとマニュアルを作ってるって
言わなかっただろうな。

見えていないところで
言葉にしないところで
夫は夫で、準備をしている。
 


 
セブンイレブンに着いて
ヨーグルトと、自分のおやつにシュークリームと
夫に「清澄み」と銘打たれた季節限定っぽい一番搾りを選び
明日の朝食の果物がないな、と思ったので冷凍マンゴーを買い
(セブンイレブンの、冷凍果物は美味しくて好き)
いつもいるアルバイトのお兄さんにレジを打ってもらって
またゆっくり帰路をたどる。

途中、鼻歌を歌った自転車の人に追い越されたりしながら。





晩ごはんの支度前にまたお腹がはってきたので、ふとんに入って横になる。
無理をしているわけでもないのに、ずいぶんとお腹がはりやすくなった。

18時過ぎに体を起こして、タンドリーチキンを漬け込む。
新玉ねぎをスライスして水につける。
ちょっと残ってたごぼうをきんぴらにする。

ごはんを作っている間もお腹がはる。

夫が帰ってきて「今日はずいぶんお腹がはるんだ」と言ったら
腰をさすってくれた。

それでずいぶん体が楽になる。



タンドリーチキン、とても美味しくできた。


食事のあとにもまたお腹がはってきたので
そのまま横になる。


1日のなかでこんなにお腹がはるのは初めて。
横になっていたら、赤ちゃんの頭がある右足の付け根の方の
お尻の骨がちょっと痛くなる。

もしかして、骨盤の方に、頭を入れ始めているのか。


着々と赤ちゃんもやってくる準備をどうやらしている。