2020年3月30日月曜日


出産予定日までおおよそ2ヶ月となったので
そろそろ準備をはじめなくては、と
必要なものを調べ、書き出していく。

ひとまず大きなものから、と思い
リストの中から
赤ちゃんのおむつを交換するための台と
(台の上で交換した方が、腰への負担が少ないとのこと。
また、台の下が収納スペースになっていて便利に感じた)
キャスター付きのワゴンをAmazonで購入した。
 
土曜日、おむつ交換台が届き
箱から出して組み立てた。
 
今までベンチを置いていた窓際が、一番おさまりがよさそうだったので
ベンチを移動して、窓際に交換台を置く。
 
今まで置き場が定まらず、夫の部屋に置いたままだった
新生児用の肌着などを籠に詰めて、交換台の下の収納棚に置く。

畳3分の2くらいのスペースで
なかなか存在感がある。
組み立てて設置した土曜日は、ここを起点にして
これから具体的に準備ができそう、とひとまず安堵の気持ちを持つ。
 
 
夜中、ライブから帰ってきた夫は
「おぉ、けっこうでかいね」と交換台を見ていい
新しい場所に置かれたベンチに横になった。
 
 
翌朝、朝ごはんを食べたあと
私も位置の変わったベンチに座り
窓辺のおむつ交換台を眺めていたら
胸の奥がちりちりとし始める。
 
夫に声をかけられて
「マタニティブルーになってる」とこたえると
夫が横に座って話を聞いてくれた。
 
胸の奥のちりちりを
言葉にかえていくと涙がこぼれる。
 
「自分の中に、いろんな自分がいんねん。
赤ちゃんが産まれてくることがたのしみな自分もいるし
生活が変わっていくことにさみしくなってる私もいる」
 
まさかという感じだけれど
自分の中に、ちいさな私がいて
そのわたしは、お気に入りだった窓辺のベンチが移動され
かわりに窓辺に置かれたおむつの交換台を見て
自分の居場所をとられてしまうような、寂しさを感じていた。
 
赤ちゃんがえりするように拗ねている。

拗ねてるわたしと今日は一緒にいよう。
大人のわたしが、そう感じる。
 
このちいさな私の声を
これからも聞きながら
大人になったり、子どもになったりしながら
出てきた小さなひとともまた、関係を重ねていくんだろうな。
 
 
 
夫があたたかい言葉をかけてくれて
ふっと救われる。
 
 
 
明滅するひかりとかげ
いろんなきもちが、妊娠をきっかけに
訪れてくる。
 
 
かげに触れていても
ひかりに触れていても
ふしぎとあたたかい。


 

 
 

大阪に住む友人が、京都で予定があるとのことで
久しぶりに会ってお茶をした。

会うたびに雰囲気がやわらかくなる友人を見て
会わなかった時間にすすんだ変化を感じる。
 
呼吸の話や、子育ての話を聞かせてもらったり
妊娠中の変化の話を聞いてもらいながら
のんびりとお茶をする。

大阪にもあったd and department
大阪のdは、建物の老朽化で数年前に閉店してしまったけれど
営業時は当時住んでいた場所から自転車で行ける距離にあって
時々その友人や当時一緒に働いていた仲間と出かけては
ソファに座ってたくさんおしゃべりをした。

朝になって友人から「今日の体調や気分で行きたいところがあれば予定変更でも」
と連絡をもらい、京都にあるd and departmentへ行きたいとふと思いつき
そこで待ち合わせさせてもらった。

真宗のお寺の敷地内にあるd。
窓からまだつぼみの枝垂れ桜と雨が降るのが見える。
大阪のdと同じで、注文したものをテーブルに運んでくれたあとは
ぽーんと放っておいてくれる。

なので、気兼ねなく
のんびりとあちこち話の進むままに、話すことができた。

 
友人が最近探求を深めているという呼吸や身体、哲学の話が
自分にとっては妊娠の体験と重なって聞こえてきて面白く感じた。



子どもの頃、
発生した記憶がないのに世界が始まっている(自分がいる)ことや
時間が流れているということ
自分の目の前にいない人にもその人の時間が流れているらしいということ
世界が継続して続くこと(いきなり違う場所にいる、とかそんなことが起こらない)
いろんな不思議があって、その謎は今も解けずに続いているけれど
 
生まれるということは
自分を包んでいたものから出るということ
そして自分を包んでいたもの(母体)すら、包んでいる世界にあらわれ生きるということ

皮がめくれるような
ひっくり返るような

そうして何もないところから宿り、
誰に教わったわけでもないプロセスを経てからだを作り出し
暗闇から生まれ出た世界には
今まで自分を包んでいた生き物が他者として存在し
そのほかにも無数の生き物が生き

空があり、地上があり、空からは雨も降る。
花も咲く。

友人の語る哲学と妊娠や出産を重ね合わせると
あらためて、今いる世界の果てしなさと
起こる現象の美しさが鮮やかになる。
 
 
そしてあらためて、感じる。

出てきたこの世界はすでに美しいということと
 
生まれ出るプロセスがもうすごいことで
誕生した後の世界は、風呂上がりのようなもの(のはず)ということ。
 
 
余計なこと
余分なことに気づくこと。
気づくことでそれが外れること。
 

 
すでにあるものに気づいていくということ。
 


2020年3月27日金曜日

あかるい歌をうたうように

赤ちゃんはもう
外の光や音が、わかるようになっていると聞いていたけれど
この間 お風呂場で洗面器を落として、ガターンと大きな音が鳴った時に
お腹がビクッと動いて、本当に聞こえているんだ!と感動した。

その話を夫にしたら
「それはいい音楽を聞かせな」と言って
テープレコーダーで、穏やかなフォークミュージックのカセットテープをかけた。
 
カセットテープの音は少しくぐもって
柔らかく聞こえてくる。

 
妊娠後期になると、お腹がせり上がってきて
またご飯食べられなくなるよ、と聞いていた通り
最近はまた胸焼けが起こるようになってきたので
 
菜の花とツナのパスタを作って食べてる夫の後ろで
晩ご飯は食べずに(昼食はたっぷり食べた)
床に寝転んでテープから流れる音楽を聞いていた。
 
お腹の中でも聞いていただろうか。
 
 
 
分娩をお願いしている産院で母親学級があり
検診の後に参加して出産の仕組みや流れについて教えてもらってきた。
 
本で読むだけではいまいち実感が湧かず想像できなかったことが
背景を知って、実感できるようになっていく。
 

たとえば「おしるし」について。
出産が始まる前に、「おしるし」と言って、おりものに血が混じったものが
出てくるとのこと。
本やネットにそう書いてあり、知識としてうっすら入っていたものを
 
産院の先生が
なぜおしるしが起こるのかを聞かせてくれて
実感に変わっていく。
 
 
かたいままでは開かない子宮口。
生まれてくるための準備として、組織が壊れ、柔らかくなる必要がある。
その壊れた組織が、血液になり、下着について、出産の準備を体が始めていると
知ることができるとのこと。

陣痛の痛みも、赤ちゃんが降りてくる時に
赤ちゃんの頭が、骨盤や仙骨にあたる痛みだと教えてもらって
ただただ痛いだけじゃなくて、痛みの向こう側に
小さい体でなんとか産道を通り抜けようとしている赤ちゃんの動きがあるんだと知ったら
どんなに痛いんだろう、とビクビクする気持ちも抜けていった。
 
 
先生が話していた面白かったことは他にもたくさんあった。
出産のタイミングは赤ちゃんが決める、という話。

今まで母体側から栄養などが赤ちゃんに送られていたのが
出産となると
赤ちゃん側から母体に向けて、ホルモンが送られ、それをきっかけに
母体が出産に入っていくという。
 
 
そして話を聞いていると
今まで母体こそが大変、と感じていた出産だけれど
何よりもまだまだ小さな体で、赤ちゃん自身が何度も子宮口にアタックして
通りにくい骨盤のトンネルを体を捻りながら、通り抜けてくるんだという。
何時間もかけて。
 
 
母体ができるのは、最後の最後はいきみが必要になるけれど
それまでは赤ちゃんが狭い産道を通り抜けられるように
脱力することなんだ、とのこと。
赤ちゃんのエネルギーが、素直にそのまま通っていくように。
 
 
 
その話を聞いたら
人は生まれてくるだけで
人生の8割、終わってるんじゃないかと思えた。
 
生まれてきた後の世界は、余暇のようなものなんじゃないかなって。
 
 
 
 
今はまだ社会の仕組み上、いろんな格差があったりもするし
生まれてきてから、いろんなことを必要とされたりすることもあるけれど
 
それでも本当に分け合うことができれば
誰でも十分に、きっと生きることができるところ。



ふと

それだけの思いをして生まれ出てきたこの場所は
美しく楽しい場所であったらいいなと思えた。
 
それは私の願いだから
私にできることは、その選択肢をとっていくこと。
 
美しさ、楽しさに向けて、開いていくことと
それが開かれる場を日々ととのえていくこと
(部屋を掃除するとか、花をいけるとか、毎日、ささやかにできることから)

そんな気持ちが芽生えてきた。
 
 
これから生まれてくる命に対してもそうだし、
私自身においても。
今生きている人たちすべて、
もう「おつかれさま」の風呂上がりのような世界にいるんだわ。

美しさの中を生きる。
それだけでいいんだ。


2020年3月23日月曜日

なんとものんびりと過ごした3連休。

土曜日は、おむすびをむすんで
また外で食べようかと話していたけれど
夫が作業をしている間に昼になっていたので
卵焼きを焼いて(ねぎ入りのだし巻き卵)
お湯を沸かして、インスタントのお味噌汁と合わせて
家の中でお昼をとった。

ラップに包んだおむすびを食べていると、
家の中でも遠足のような気持ちになり、気分がいい。

そのあとは三条商店街にある、好きな雑貨屋さんまでふたりで歩いて出かける。
家からだとずいぶんと歩くけど、
まっすぐな大通りを歩いていくので空も広くて気持ちがいい。
途中で、二条城の横を通り過ぎるのも好きだ。

中学生の頃に修学旅行で見学した二条城の横を歩くとき
いつも「あの頃のここが生活圏になぁ」と人生の不思議を思って
ふと、果てしない感覚がやってくる。その感覚が好きなのかもしれない。

中2の頃、太いまゆ毛と、めずらしく長かった髪の毛を2つに結んでいた。
好きな男の子がいて、その子と同じ班だった。
なんともラッキーな修学旅行だったはずだけれど、
本当は市営バスに乗っていた映像しか、もう出てこない。
 
二条城のことも覚えてないけれど、行った、ということだけ記憶に残っていて
前を通るたびに、「ここかぁ」と思うのだった。
 
大きな門だなぁと正面口を眺めてから夫を見ると
10年以上京都で暮らしている夫は
ちらりとも二条城を見ていなかった。
 
 
雑貨屋さんで、赤ちゃんのものを入れるように大きめの籠を買い、
夫はずいぶん前から欲しがっていた、塩を入れる用のガラスのタッパーを買った。

それから、商店街を抜けて、喫茶店へ。

団地の敷地内にあるそのお店は、女性店主の営む、いいお店。
コンクリート打ちっ放しの壁に大きな本棚があって、たくさん本が並んでる。
入り口と窓が大きいガラス張りになっていて、外の光が入ってくる。
それでいて、入り口が少し奥まっているから
室内にちょうどいい影も生まれて、どこかひんやりと静かで
心が落ち着いていく。

久しぶりに訪ねたけれど、やっぱり、いいお店だなぁと居心地よく感じた。

妊娠していることを伝えると、
夫のことを前から知っている店主がとても喜んでくれて
ご自身の出産の時のことや、赤ちゃんが生まれてくるまでにやっておいた方がいいことを、話して聞かせてくれる。

「夫婦2人単位、というのは、これからしばらくないから
ふたりでできることを楽しんで」
 
そんな言葉をかけてもらって帰り道、夫から手を繋いできてくれた。
 
春からやってくるだろう変化は
自分にとって未知すぎて
いくら想像しても、想像できない。

きっとどんなに思いを馳せてみても
その通りにはならないだろうし
思いがけないことの連続だろうと、
それだけはなんだかそう思えるから
実はあまり思いも馳せていない。


夫と自分、というふたり単位の家族が
これからしばらくの間(こどもが自立していく時まで)
もう経験できなくなり、今が今だけだということ。

なんとなく、そうなんだな、そうなんだよな、と思うけれど
本当に、「あの時、あの時間は、あの時だけだったんだ」と
わかるのも、きっときっと、通り過ぎてからなんだろうな。


そう思うと、時間が流れているということは
なんだか切なくて、とても美しいことに思える。
 
ああしておいたらよかった、とか
そんな思いももしかしたら湧くかもしれないけれど

それでも、
通り過ぎてから、その時が美しかった、って
心から感じられるというのは
なんだかそれ自体が、とても美しいことのように思える。
 
 
 
喫茶店で店主が
娘さんが幼稚園の年中さんの頃にお店を始められた、
ということを話していたのも心に残り

「いつからでも、始められるんだな」と帰り道を辿りながら思った。
 
 
夜は、家で夜ごはん、と話していたけれど
家から少し北に歩いていったところにある、ラーメン屋さんへ行き
ラーメンを食べた。

特徴的なわけではないけれど、美味しい、スタンダードなラーメン。
「こういうラーメンが食べたいっていう時、あるよね」「あるある」
「美味しかったね」「特別じゃないけど」
と、食べたばかりのラーメンを褒め称えながら、夫と帰路につく。

その時にもふと
「ラーメン屋さんてたくさんあるけど、どのお店も、独立して開業されているんだなぁ」
ということをふと思った。

自分にはラーメン屋さんを開くという選択肢がないから
少しも思ったことがなかったけれど

独立して、仕事をしている人って
けっこうたくさん、どこにでも、いるんだ!と
サラリーマン家庭で育ってきた私は、ハッとなった。

友達が、独立する、という話を聞くと
すごいなぁ、と思ったり
お店を持った、と聞くと、あらまぁ!と思ってきたけれど

特別なことのようで
特別なことでもあり
特別でもないのかもしれない。


自分がこの先、お店を開くことがあるかどうかわからないけれど
静かに、独立、ということへの感覚が変わった日でもあった。







2020年3月22日日曜日



よく歩いた連休になった。

連休前日の晩、
夫と、夫の友人と、木屋町まで飲みに行く。

ずっと家にいてストレスが溜まってるかも、という話をしていたからか
夫が声をかけてくれた。

私はノンアルコールビールだったけれど、それでも居酒屋さんで
みんなと同じように金色のしゅわしゅわしたのを飲んでいると
酔っ払っているような気分になれるから不思議だ。
 
 
いつも人とすれ違うのがちょっと窮屈なくらい混んでいる飲み屋通りだけれど、
その日は人出が少なく
よいかわるいかはわからないけれど
空気が軽やかで、人の気よりも、空から降りてくる夜気の方が
道にいきわたっていて、歩いていても気持ちがよかった。
道沿いに流れている高瀬川の水面が、キラキラとして綺麗。

生き物のように、街の中に走る川があり
ちいさな人間たちがそのほとりで、食べたり、飲んだり、笑ったりしている。


 
美味しい焼き鳥を食べ終えた後
ミングルという、普段はライブや落語会をやっている場所がバー営業をしていて
ノーチャージだから行ってみよう、と友人が言ってくれる。
誘われるままに訪ねると、お酒だけではなく
美味しい中国茶も飲めて、なんとものんびりと自由な空気が流れる、
いいお店だった。

思い思いに、飲んだり、話したり。
その中でオーナーの山本精一さんがギターを爪弾いている。
とても心地よい音。有機的な空気。
みんなそれぞれでいながら、互いに静かに、響き合っているような。
 

お店の入り口に、「タロット占い1000円」とあったので
夫と友人がワインを飲んでいる間に、タロット占いもしてもらった。
占いをしてもらうのはとても久しぶりで、面白かった。
占ってくれた女の子が、前向きになるように言葉を置いてくれるのが伝わってきて
そのこともありがたく、嬉しかった。
たった今、目の前に座っただけの私に向かって。
 
尋ねたのは、産後の働き方について。
カードの説明を聞いていたら腑に落ちるところがあって
気軽な気持ちで受けたけれど、思いがけず心の中が整理された。


お店を出て、3軒めに行くという友人と別れ、
機嫌よく酔った夫と地下鉄に乗って帰宅する。

夫は酔うととても陽気になってふざけ始めるので面白い。
そしてその夫を見るたびにいつもなんとなく
彼の本質はきっとここなんだろうな、と思う。
 
家についてすぐ、湯船に湯を入れて
私もさっと入り、夫もお風呂に入ってもらう。
 
体を洗おうとして、シャワーを出しっ放しにしたまま眠っているので
なんどもお風呂のドアを開けて、声をかけた。
 
最初は風邪ひくよ、という気持ちだったけど
10分くらいお湯が出しっ放しの音が聞こえてくるので
だんだん「シャワーもったいないよ」という気持ちになっていき
「シャワーもったいないよ」と、意地悪なことを3回くらい言った。


酔っ払った夫を、布団に寝かすたびに思う。
 
風邪ひいてほしくない、とか、
体洗ってからふとんに入ってほしい、とか
私の勝手で、酔って寝入ろうとする夫をお風呂に入れたり、着替えさせたりして
布団に入ってもらうけれど

独身の時みたいに、酔っ払って、気分よく床で眠ってしまって
夜中や夜明けに、寒くなって目を覚ますような
そんなことがあったっていいよな、ということ。

今、とても気分がよくて、このまま眠っちゃいたい、っていう
そんな気持ちに、なっているんだから。

そして、あとでどんなに体が痛くなっても、
夜明けに冷えた体で浴びるシャワーの熱さは気持ちがいいし
酔って家について、そのまま溶けるように眠れるのは、なんだかんだと
その瞬間はいちばん、気持ちがいいんだ。


その機会や気持ちを
私は自分の欲望を優先して、
奪っちゃってるんだよな、ということを思って
ちょっと胸が痛くなる。

それでも私は自分の気持ちを、優先して
毎回、強行してしまってる。

お風呂はいって、布団入った方が、なんだかんだ
気持ちいいよね、と言い訳みたいなことを自分自身に言い聞かせながら。


いつか、好きなようにしたらいいさな、という気持ちになれる日がくるのだろうか。


そんな晩を経て迎えた連休初日は
意外にもすっきりと起きた夫と一緒に
サンドウィッチを作って、京都御所まで出かけた。
早咲きの枝垂れ桜が見頃で、淡いピンク色と青空が綺麗だった。

人出は少なく、それでも
たえず桜の木の下に人が重なり、みんな枝に咲く花を見上げていた。
 
芝の上にシートを敷いて、夫とサンドウィッチを食べる。
卵焼きを入れたのと、レタスとウインナーを挟んだもの。
ラップに包まれて、少ししんなりとしている。
外で食べると、より美味しくなる気がする。
 
少し甘い卵焼きと、オーロラソースがしんなりとしみた食パン
 
青空と桜の花。
 
御所に入る前にコンビニで夫はコーヒーを買い、私はコアラのマーチを買った。
数年ぶりに、コアラのマーチも食べる。
ほとんど空洞だな、と思ってチョコの詰まったトッポを買えばよかったかも、
と一瞬思うけど
遠足気分で、子どもの頃のように、コアラのマーチを食べたかったのだった。

それから桜のそばまで歩いたり、御所のなかを散歩したり
御所の隣の梨木神社をお参りして
ゆっくりとまた、歩いて家に帰る。

帰り道にカフェの前を通ると、カレーのいい匂い。
夫が「カレーのいい匂い。さっきもCoCo壱の前でいい匂いした」と言ったので
今夜はカレーにしようか、と話す。

暖かくなってくると、食べたくなるもの、飲みたくなるものがたくさんある。
カレー、ビール、アメリカンドッグ、マックのポテト、コロッケ、
ちょっとしょっぱかったり、スパイシーなもの。
どれも空の下で食べたり飲んだりするのが、美味しいもの。
 
 
歩き疲れて、家に帰って寝ていると
その間に夫が買い物に行って帰ってきて、カレーを作ってくれた。
鶏肉と、春菊と、玉ねぎと、しめじ。
レシピに書いてある、生姜が家になかったから、「生姜なくてもいいんじゃない」と話して生姜を抜いたけど、ちょっと刺激が抜けたのが、ちょうど全体の調和がとれる感じになって、美味しかった。
 
 
春分の日。
穏やかに、ゆっくりとやってきて
ゆっくりと流れ、過ぎていった。
 

2020年3月19日木曜日


すっかり気力が充実してきた

今朝、目が覚めたあと
ゆっくりゆっくり呼吸をして、からだの様子を感じてみる

じんわりじんわり
 
深呼吸

それから、お祈りの言葉、胸の中でとなえる
 
おはよう、と夫と、お腹のひとに話しかけて
体を起こす

カーテンを開けると
もうお日様も高い
 
日差しが部屋に入り込む
 
 
テーブルの上の蝋燭に火を灯して
結婚式の時と、戌の日のおまいりで、それぞれ
神社からいただいたお札に向かって、挨拶する。


台所でお湯を沸かして
コーヒーをいれる準備をする。

その間に、最近ひそかにはまっている並木良和さんがyoutubeで教えてくれていた
グラウンディングの体操をする。寝起きはやっぱり、ふわふわしているから
そこで気持ちがすうっと落ち着く。



調子が悪い日も、いい日も、それぞれにある。
重たい日、軽い日、それぞれの日に、それぞれの過ごし方を。
 
 
朝食をとって、夫を見送ったあと
お天気がいいので洗濯をして、家中掃除する。
今日は動く、動く。
時々、椅子に座って休憩しながら。

ひととおり終わって、床にぺたんと座る。

ベンチの背もたれにかけた、私が編んだ毛糸のブランケットを眺める。

母方の祖母が、家の建て替えでしばらく実家にやってきて
一緒に暮らしていた時
編み物好きの祖母から簡単な編み方を教えてもらって
それをひたすら繰り返してできた、ブランケット。

いろんな毛糸を組み合わせていて
気に入っているところもあるし、
パステルカラーの虹色の毛糸がポップに入り込んだところもある。

そのポップなところを眺めながら

虹色の刺繍糸で、「アグネス・パーラー」と
ケータリングでドリンクを出されていたアグネス・パーラーさんが
ナプキンに刺繍されていたのを思い出す。

あれを見つけた時の、キラッとした気持ち。

なおちゃんと、同じ刺繍糸を見つけて、
虹色の刺繍糸で、いろんな文字を、刺繍した時の気持ち。

思い浮かべながら
「これから楽しいことがある」
そんな予感が、不意に胸におとずれた。


これから、楽しいことがある。

まだまだ、
たくさん。


気負うこともない。
そこまで走らなくても
日々を生きていたら
それはやがてやって来る。



日にあたるベンチの上で
3体のぬいぐるみたちが、のべ〜っとからだをのばし
のんびりとしてる。


いい気候。春みたい。そして、今は春なんだ。


2020年3月18日水曜日



少し前
朝、目が覚めて体を起こす前に
蝋燭に火をともす映像が浮かんできた。

その日は家にあったアロマキャンドルを焚いた。

朝で部屋に日が射していても
火をたくと、火の気配が心地よい。

生き物がそこに、産まれたような感じがして。



それでティーキャンドルを買ってきて
ジャムの空き瓶をキャンドルポットに
今朝も起きてから窓を開けて、空気を入れ替えたあと
火を灯した。

 
嬉しい。

それだけで体の中にも熱が灯り、エネルギーが巡る感じがする。
おなかのおくっかわが深く、落ち着く感じがする。



浮かんできたイメージに、体を合わせて運んでいくのは不思議。
それが何になるのかは、わからない。
蝋燭に火を灯す、というイメージが見えているだけだから。

でも、浮かんできたものに素直に、手を動かしてみると
そこから思いも寄らないめぐりを受け取る。


こんなことだけなのかもしれない、と思う。
こんな風に、生きるだけなのかも。と。



今日から彼岸の入り。

鳩居堂、というお店にお線香を買いに行って
お墓まいりに伺えないかわりに、夫と私の実家それぞれに
お線香を送ろう、と思い浮かぶ。

それでも、なんとなくまだ体調が心もとなかったり
お腹が減ってきてご飯を食べたりしていたら
気づいたら15時半を過ぎている。

街に出て、夕方までに戻ってくるのは忙しないかなぁ…なんて考えていると
時間がどんどん流れていくのだけれど
体調も大丈夫そうだし、明日に延ばすのはなんとなく違う感じがする。

それで服を着替えて、地下鉄に乗り、街へ出ていった。

イメージに向けて、体を動かす。



鳩居堂でお線香と季節の絵葉書を包んでもらい
イノダコーヒーでお義母さんにコーヒー豆を買った。
本屋さんで赤ちゃんの名付け本を1冊買う。

平日なのと、観光客が減ったことで
街は空いていて、夕方の光が綺麗にさしこんでいた。


出かけたおかげで、新鮮な空気が自分にも流れ込み
からだの中がめぐっていく。


そして、facebookもtwitterも見ない1日が
気持ちいい。
知らなくてもいいことを、ずいぶんと覗き見していたみたいだ。


目の前の夕焼けをもう少し見ていたくて
いつもは曲がる道を曲がらずに、
夕焼け空に向かってまっすぐ歩いた。

2020年3月17日火曜日

産院に出かけて、検査のために採血した後に
たくさん歩いたのがよくなかったのか
お昼ご飯を食べたあと、体がだるくなってきた。

そのまま片頭痛がしてきて、2日間布団の中。

もう寝るのにも飽きてしまうけれど
起きていると頭が痛くなってくるので、じぃっと横になる。


横になりながら
なんとなく、発露をなくしていたストレスが
出てきたんだろうなぁ…とも思った。

夫はずっと、大事なイベントのために一生懸命だったし
できる限り手伝いたい気持ちと
小さな頼みごとをしたいと思った時にも
頼む前にそれを我慢して
ひとりもんもんとしていることがあった。

赤ちゃんのことが気になって、外に出るのを控えたり
 
全部じぶんで選んでいたことだけど
気づいたらじぶんを閉じ込めていたみたいだ。




横になるしかできないので
自然と夫を頼ることになる。

夫はいやな顔せずに家の中のことをしたり
頼んだウィダーインゼリーやポカリスウェットを買ってきてくれた。

布団の上に寝転びながら
時々夫の姿が、障子の間から見えると嬉しいので
姿がみえたらむやみに名前を呼んだりした。
 



頭痛はつらかったけれど
子どもが産まれてくる前に
夫を頼る、ということを心に留める、2日間になった。

つい、「自分がやればいいや」と
頼んだり、相談する前に、引き取ってしまう癖がある。
断られたらいやだな、とか、いやだと思われたらいやだな、
という気持ちが働いて。



だけどこれからずっと、一緒に生きる人だ。

そしてきっとこれからもっと、ちからを合わせる場面が増えていく。

ゆっくりゆっくり、頼ることを知っていこう。





体が弱っている時は
自分に負荷がかかっているものが
よく見えてくるような気がして

ずっと気になっていた
facebookとtwitterのアカウントを削除した。



SNSは開くと更新されているので
つい毎日見てしまっていたけれど
ランダムに入ってくる情報は必ずしも知りたいものでも
心惹かれるものでもなかった。



むしろ、自分にとって大切な友人たちのことは
そこからは伝わってこないのに

ちょっと遠い知人の近況が、毎日届いていた日々。




自分が元気だと、なんとなくもやもやとしながらも
つい見てしまう、という感じで開いていて
もやもやをやり過ごしていたけれど、
それは確かにそこにずっとあった。



弱った時には、もやもやがはっきりと
「重たい」「いらない」と感じられた。


もうずっと、そうだったんだった。




眠って起きるたびに、
少しずつ頭痛が遠くなっていった。


昨夜は
夫が自分で作った豚キムチをおかずにご飯を食べるときに
もそもそと私も布団から出て
食卓で食事をとる夫と一緒に、ウィダーインゼリーを飲んだ。


豚キムチがいい匂いで
ちょっともらって食べたら美味しかった。




今朝起きると、頭痛は丘の向こう。
体もすっきりとしている。

朝はお白湯とパン
夫はコーヒーとパンで一緒に朝食をとることができた。



夫を見送ってから
なおちゃんが送ってくれたお茶を淹れて
ゆっくりいただいた。おいしい。

窓から青空が見える。




2020年3月10日火曜日

3月10日

目が覚めた時から、ざぁざぁと雨音。

雨か、と少し心がしずむ
それと同時に
昨日たっぷり、洗濯物がほせてよかった
と思う

今日も朝がきた。


昨日は資源ごみ(プラスチックごみ)を3袋出したけれど
今日は燃やすごみの日で
昨日まとめた着古した服やらを合わせて、また3袋、集積所に出した。



コロナウィルスくん(なんだか、敬称をつけたくなる)のことが
連日報道されて、私は少し、疲れてしまった。

朝ドラを見る前にテレビをつけると、ニュース番組で
アナウンサーが「し」と発声した瞬間に、チャンネルを変えていた。

わかっていること以上に気をつけられることもないし
もともとの持病や体力低下がなければ、そこまで重症化することもないみたい。
なのに、「気をつけて」「気をつけて」と毎日聞こえてくると
反発したくなってくる。
 
ねぇ、みんな、もう充分、気をつけているじゃない。

一生懸命、やっているじゃないのさ。
 
私は、気をつけているし
そして、今、健康だよ。
 
好きな人たちも元気。
ごはん、美味しい。
木蓮の蕾は、だいぶ大きくなりました。 
 
ちいさな灯りに触れたくて
音楽きくよ。

https://youtu.be/mTXvE-I3hW4


夫がレコ発ライブを続けて開催するか
中止にするかで、ずっと悩んでいるのを見て
涙が出そうになる。


他の誰も、決められないこと

どちらにしたらどうなると、はっきりとは見えないこと

それでも、決める必要があること


どちらか、と考えていると
わからなくなる

どちらかを選んだと同時に
どちらかを選ばなかった、ということがやってくる


ひとつの、あたらしい景色を
のぞむ

という行き方しか。



2020年3月9日月曜日

何度でも/トンネルを/くぐり抜ける



3月9日 月曜日
もうすぐ満月


先々週の月曜日は祝日で
おやすみ気分にとらわれて、うっかり資源ごみを出し忘れた。
 
それで、ごみ袋1袋分をベランダに出していた。

先週の月曜日は、私は埼玉にいて
夫は日曜日の夜遅くに東京から京都に戻って
翌朝会社に出社したから、余裕もなかったのだろう。
やっぱり資源ごみを出さなかった。
 
それでもう1袋、ベランダに置いていた。
 
それを今朝
この一週間分と、先週分、先々週分と、3袋
ゴミ集積所に出してきて、気持ちがすっきりとしている。
 
 
埼玉に帰ったのは
夫の新しいアルバムのレコ発ライブに合わせての帰省だったから
直前まで準備で夫も私も根を詰めていた。
 
それがひとつ終わって
この週末は少しゆっくり過ごして
(それでも、まだアルバムのことは続いている!
リリースって、旅だ。長く歩く必要のあるときは大変。
でも、CDがボートになって、新しい景色を見せてくれる)
今日はやっと平常運転の平日。
そんな感覚がやってきた。

朝のうちに家の掃除をして、天気がいいので洗濯物もたっぷりとほした。

段ボールにもう読まない本を詰めて、ブックオフに買取の申し込身をする。
出しっぱなしにになっていた画材や本を棚にしまう。
 
この冬いっぱいで、もう充分と思った着古したコートや
いただいたものの着なかった服も、押入れから出して
処分するため、袋に詰めた。
 
 
これだけのことで
心のほこりもはらわれて、新しい空気が
めぐる感じがする。不思議。

家事は、魔法。




帰省中、なおちゃんのおうちに遊びに行かせてもらって
なおちゃんが始めた、アロマのセッションも受けさせていただいた。
 
セッションの部屋に、我が家にあるのと同じクッションを見つけて
ハッとなる。

前にもカーテンが同じ!ということがあったのだ。

離れて暮らしているのに不思議。

(そうして家に戻ってから
私はカーテンを、クッションを、前よりもまた一層、ふかく
好きになる)


セッションのはじまりに
なおちゃんのくれたカードの質問に答えを書き込みながら
自分の体が緊張してかたくなっていたことに気がついた。



セッションは
あかるくふかく、ひろいところにいって
目の前に広がる世界の奥、
奥にある種を見せてもらうような
そんな時間になった。

ひとつひとつ、かがせてもらった香りが
地図のように並んでいく。


ちょうどその日の朝方にみた夢も重なってきて
節目のような、切り替わりのような
そんなひととき、そう思っていると
なおちゃんの口からも「ぬけていく感じ」と、言ってくれて
そう、そう、と、ピントが合う感じがあった。

ちょうど節目、
歩いていたトンネルを抜けたところ。

体の緊張の話もしていたら
背中をそっと、マッサージしてくれた。

体がゆっくり、柔らかくなる。




ひとつひとつが
澄んでいて やわらかい
 
あたたかさの中で
 
こわばりやかなしみも
あってもいいよね、という気持ちにもなる
 
 
ひとつ、ひとつ

地図の一部であるように。
 
 
美味しいお茶をいただいて
それから
その日に、選ばれた香りを
アロマストーンに染み込ませてくれた。

その香りが、今も
京都に戻ってきた私の日々の中で、お守りのようになる。


星のかけらのような
種のような

過去も未来も含んだ、香りのお守り。