2019年11月7日木曜日
加湿器からもくもくとあがる白い水蒸気を見ながら
9月に妊娠がわかってから、ひと月半くらいが経った。
本当にいるのかな?と不思議な気持ちを抱きつつも
産院でエコーを見せていただいたり
トクトクトク…と鳴る心音を聞かせていただいたり
今まで食べられたものが食べられなくなり
妙におにぎりばかりが食べたくなる(それも、焼きたらこの入った)というような
からだの変化を経ながら
どうやら、この「からだ」というボートに
もうひとり、乗り込んだらしい
ということの実感が、日に日に深まっている。
ずっとずっと
「わたしのからだ」と思い
むしろ「からだ」を「わたし」と思い、生きてきたけれど
もうひとつの存在が発生したことで
今まで「わたし」と思い込んでいた「からだ」は
「わたし」ではなく、「わたし」を乗せてくれているボート、舟だったのだ、
そんな風に感じられるようになった。
わたしの意図を離れ、
ボートはもうひとりの乗客のために
着々とめぐり始めている。
わたしはまるで知らない、そのひとつひとつの道筋を
ボートは知っている。
そのことに触れると、不思議と涙がこみ上げる。
いのちが
生き めぐる その仕組み 営みは
からだが知っていて
「わたし」とは離れたところで
発動し、めぐっている。
生命の営みは
意図を越え
世界に帰因している。
生きているということは
世界に迎え入れられているということ。
つい数日前
実家の母から電話があり
終末ケアを受けている祖母に、黄疸ができていた
と連絡が入る。
「先生が、年は越さないと思いますと話していたけれど、そうなるかもしれない」
と伝えられた。
夏前から病院に入り
ほとんどベッドの上で、眠って過ごしている祖母。
ゆっくりゆっくり、命の灯火が、小さくなっていっているのを感じる。
夏にお見舞いに行った時
ベッドで眠っている祖母は、とても澄んでいた。
手に触れると、いつもの祖母の、ぷよぷよと水っぽくて柔らかい手。
左手の薬指に、金色の結婚指輪。
祖母のことを思い浮かべると
自分が3歳頃のことから、つい最近のことまで
祖母といた時間の記憶が蘇るけれど
どの時間にも一貫して、同じ感覚が流れている。
じわぁっとした
あたたかいものに触れられている。
そんな感覚。
祖父と祖母に
ストーブの上でおもちを焼いてもらって
おしょうゆをつけて兄弟で食べたり
そんなささやかなことばかりが積み重なっている。
生まれてくるひと、
きみがどんな道をいくのか
わたしにはわからないけれど
ささやかなことばかりが 毎日 あって
わたしは37年生きてみて思うけれど
幼稚園から帰ってきて、玄関上がって台所へ行く時の床のつめたさとか
台所の入り口の球のれんのじゃらじゃらとした感じとか
そんなことが
どうしてか不思議と
いとおしさと一緒に
おなかの奥に今も流れていて
じんわりとじんわりと
そこから現在が、照らされ続けている
そんな風に思えて
ならないんだ
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