2020年7月11日土曜日

記録



 
洗濯桶で沐浴していた娘が、湯船に入れるようになった。

夫が娘の体を洗って、
湯船に浸かった私が体を洗い終えた娘を受け取り
一緒に湯船に浸かって
また夫に娘を渡してお風呂上がりの身支度をととのえてもらっている。
 
おかげで私も湯船にゆっくりと浸かれて嬉しい。


娘は軽いので、お湯に浸けると
ぷかぁっと体が浮いてくる。

両手で浮いてくる体をおさえて、肩までお湯に浸けて
湯にぷかぷか浮かんでいる娘は、いつもきょとんとした顔をしている。


この頃は、いろんな声も出るようになった。
離れていると、「あー!」「あー!」と言って呼んできたり
目を合わせていると、猫が喉を鳴らすような声を出したりする。
 


 
 
 
産院で入院中にそうしていたように
退院してしばらくは、授乳した時間と、
母乳と合わせてどれだけミルクをあげたか
毎日記録していた。
 
それを見ながら、授乳間隔を確認したり
ちゃんと飲めていそうか判断したりしてきたのを
7月に入ってからやめた。
 
今はミルクは湯あがりに1回だけ夫に飲ませてもらっている。
(湯あがりのスペシャル)

それ以外は母乳をあげているのだけれど
母乳はどれだけ飲んでも大丈夫、と言われているので
欲しがるたびに、あげるようにしている。
 
そうすると30分くらいしか間があいていなかったり
大体20分ほどで終えている授乳が40分くらい続くこともある。

初めは、まだこれしか時間が空いてないけど、大丈夫なのかな?とか
こんなに授乳に時間がかかって、よくないのではないかな??とか
不安になったけれど
 
赤ちゃんはちゃんと、自分の必要をわかっている。
ということが
娘を見ていて、わかるようになった。
 
 
さっきあげたばかりで、お腹は空いていないはずなのに
おっぱいをほしがったり
えんえんとおっぱいを飲んだりする時は
眠たくて、眠るためだったり
気が立っているのを落ち着かせるためだったりする。
(おっぱいを飲んでいるうちにすやぁっと眠ってしまう)

いらなくなれば、どんなに口元におっぱいを持っていっても
唇をきゅっと閉ざす。
 
 
 
えんえん飲む時もあれば、
5分ほど飲んでふいっとやめてしまう時もあり

そういう時も、最初の頃は「なんで〜?飲んで〜」と思って焦ったけれど

ごくごく飲みたい時もあれば、ちょっとだけ飲みたい時もあるよな
と、当たり前のことを思えるようになってきた。
 
 


はじめは母乳がなかなか出ずに焦ったけれど
今は母乳も順調に出るようになってきた。
 
なんとなく、母乳で育てることがよい!という風潮があり
私も、母乳がでないことにこんなに焦るんだ、と焦る自分に驚きもしたけれど
(ミルクでもいいや、となかなか割り切れなかった)

母乳が出るようになった今も
湯あがりには、夫から娘にミルクをあげてもらっている。
 
まだ言葉を交わせない今、
口にするものをあげる、って、とても大切なコミュニケーションに思えるから
夫と娘の間でそれを交わせるのっていいな。と思えるし

娘に命を分ける、という役割から
1日1回、私はお休みをもらっている。
 
 

こういうことは、本には書いてないし
インターネットで検索しても、でてこない。

このひと月で見つけたこと。
生まれたバランス。
 


初めてで、何もわからないから
ついつい検索魔になってしまうけれど
 
ひとりひとり、みんな違うのだった。

それは、赤ちゃんもだし
父親や母親も。



今日は
夫と娘と3人で、あの、名前のない喫茶店へ行った。
 
以前、店主の方に「うちは赤ちゃん、大丈夫ですから」と
言ってもらっていたのもあって。
 
かき氷と、ホットコーヒー
それからジャスミン茶とクッキーもいただいた。
 
娘がぐずる場面があったけれど
「他にお客様もいませんし、泣いても大丈夫ですよ」
と言ってもらえてありがたかった。
 
 
お店から帰ってきて
家で娘に授乳しながら、夫と話していたら
「この家もいいなぁ」とあらためて感じている自分を見つけた。
 
それは、あのお店に行けたからだと思う。
 
(娘と一緒に、三者でより快適に暮らすには
どこかで引越しが必要になるのは変わらないけれど)

この家からなら、歩いてあのお店に行ける。


それで

「家」(住まい)って、
「家そのもの」だけじゃないんだな。
 
その周りの環境と地続きにあって
 
その環境まで含めて、というか
その環境にある家、としての、住まい、なんだ。
 
と気づいた。
 





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